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電車が止まった

一時間半という、何にもならない時間。
そのおかげで色々なことを考えるいい時間をもらった。
震えながら雪もゆっくり眺められた。
時間とそれに対する対価、
そんなものに振り回されることはアホらしいと、
久しぶりに気づいた。
時間を無駄に使うことは豊かなこと。
それはパフォーマンスアートかストリートアートかはた迷惑か
渋谷のJRから京王井の頭線に至る道に巨大なインパクトのある壁画。
岡本太郎さんの「明日の神話」にいたずらがされたとのこと。
ちょうどグラフィティの研究をしていたとき、メキシコのホテルに飾られるはずの岡本太郎さんの絵画が
日テレかどこかで展示されるとニュースでやっていた。
当時はかなりニュースで流れていて、グラフィティのスケールをはるかに超える
(もちろんビル一面に描かれたグラフィティもあるから一概には言えないけれど)
壮大な絵画を見たいと本気で思った。
結局新橋まで行くのが億劫で行かなかったけれど。
社会人になり渋谷のあの道をしばしば通ることになり、いつもは下を向きながらあるく自分だれど、
あの絵の前を通るときはほとんど上を向いて、眺めてきた。
数十回と見たと思う。
とにかくスケールのでかさに毎回圧倒されて、見るたび陰鬱さを帯びた絵に
どすぐろい感情を喚起されつつ、「果たしてこの絵を見て大きさ以外に誰が何を感じるんだろう。」
と感じていたのを覚えている。
今でも渋谷に行くときはよく見るけど、未だに自分はあの絵の見方が分からない。
大きさに圧倒されはすれど、感動もしないし感慨深くもならないし、爆発もしない。
でも好きだから不思議だ。
その絵の隅っこ、に、四つの原発の絵が書かれたキャンパス。
作者の意図とは反して「置かれた」この絵をどう捉えるか。
一つ、岡本太郎はそんな小さなことに怒る天才か?
二つ、絵画とは全てが額縁に飾られた、何人も触れることが出来ない穢れ無き存在をさすのか。
三つ、過去の偉人をある所縁の無い個人が「活用」して良いのか。
四つ、手法としてどうなのか。
一つ目は、岡本太郎記念館館長のコメントがそれに答えている。
「太郎が生きていても、別に怒らなかったと思いますよ。『ふーん』というだけでしょう」
本人が生きていたら「なんで直接書かない!」とでも怒るのだろうのか。
上の『ふ~ん』にはやり方たいしたこと無いなという皮肉がたっぷり詰まっている。
きっと、岡本太郎さんが生きていても怒ったりショックを受けたりしなかったんだろう。
二つ目。
20世紀の美術は額縁という二次元の世界と写実という柵から抜け出すための時代でもあったと思う。
二次元の中でいかに表現の枠を広げるか、
二次元を超えて三次元、額縁の中の二次元を越えて違う二次元へというのが
潮流を経ての現代の絵画。
仮に、今回の事が美術館の中の湿度と額縁と警備員と学芸員に
守られた空間で起こったことなら、問題だと思う。
その場合は、二次元でもなお人を感動させるに値する絶対的な存在として、
出来る限り製作時点の状態に保たれた絵画がそこにあるからだ。
けれど、今回の絵画は元々ホテルに設置する予定だったもので、
そのスケールから見ても大気やら人やらから守られようとして作られたものではないことは、明らか。
誰もが自由にアクセスが出来る場所に置かれ、そこで何かしらのハプニングが起こりうるものと想定して
作られなければ、こんな大きさには決してならない。
そして今、渋谷という自由なパブリックスペースに設置されることを
岡本太郎さんが知っていたのかどうかは知らないけれど、
そこに設置する許可をした人間はハプニングが起こる可能性を考えなかったなんてことはありえない。
ある程度、何かしらの外的要素が加わって原型から変わることを想定して出来上がった芸術。
絶対的に書き上げたその当時のままの存在でなければならないという意志が無き芸術ならば、
そこで何が起ころうと必然であり、それを含めての岡本太郎さんの作品ではないか。
美術館やお金持ちの豪邸の中でしっとりと守られるという前提は、
この絵画には無用な存在なのだと思う。
三つ目、今回chim↑pomというアーティスト集団が自分たちがやったことを自分から披露した点で、
「現実に対して問題提起をする」ためのアートではなく、自己満足あるいは売名に成り下がった。
社会に対して問題提起をしたいのならば、このようなインパクトのある方法を取った時点で自分の存在を人に知らしめる必要性はゼロだろう。
渋谷に飾られた有名アーティストの壁画、右隅に描かれた四つの原発。
岡本太郎さんの絵にいたずらが、というだけでまずインパクトがある。
さらに、少し調べれば今回いたずらされた絵が核をモチーフにしていることなんてすぐに分かる。
結果、「誰がこんな悪質なことを・・・」とテレビや新聞やネットを見ながらぶつぶつ言いながらも、
「核をモチーフにした作品に原発が描かれるという事は、それに対する問題意識を喚起している」
という論理は誰でもすぐに導かれる。
本当にアートを通じて社会に問題提起したいならば、
誰がそれを実行したかなんてそこには全く必要なく、なぜやったかなんて言う必要もない。
そもそもアートというのは、説明なんていらない存在なはずでは無いのか。
名乗る必要なんて無かったのに名乗ってしまった時点で、
アートではなくこの人達が岡本太郎さんをダシにしたようにしか自分には思えなかった。
名乗らずひっそりと社会の成り行きを静観する人が今回のようなことをしていたなら、と残念な気持ち。
四つ目、手法としてどうなのか。
ハプニング、パフォーマンス、インスタレーションといった美術の流れの中での行為か、
あるいはストリートアート(グラフィティではない)としての行為か、二つ考えたが、
芸術家を標榜している以上前者なんだろうと思う。
だとしたら、かなり古めかしいことをやっている。
20世紀半ば過ぎから実践されてきたこれらのパフォーマンス系アートは、
アイデアと扱う題材と「これはアートだ」という一言で決まっている気がする。
極端に言えば、やると決めれば誰でもできるものが大半ではないか。
捉える人によっては「それがどうした?」の一言で完結する、
限界がある表現方法を今更踏襲して、
ではここにしかない先見性は今回のやり方のどこにあるのか。
それが見えないと、それこそ欺瞞に満ちた自己満足にしか捉えられないのではないか。
一方、仮に後者のストリートアートを念頭に行っているとしたら、今回のはbanksyのただのパクリだ。
やり方も、描き方も。
どちらにしても、そんなに目新しいことをしている訳ではないと思う。
色々とつらつら書いてきたけれど、自分の中では素性を名乗りさえしなければアリだと思う。
だけど、自分の存在を世に知らしめて、そしてそれが芸術家であった時点でアウト。
がっかりした。
結局は自己満足のアーティストがたいした新しいこともせずに人の作品に乗っかってさらに世の中騒がせて、
「アートですよ。」って勝手に言って酔ってるだけにしか見えない。
学生でもないのに学生ノリ、見たいな気持ち悪さ。
別に展覧会の広告のためにやってようが自分が楽しいからやってようがそんなことは何でもけど、
アーティストなら、一切の外部要因を取り除いて作品一つで人の心揺さぶるべきではないか。
最後に一つ。
絵画は作者の伝えたいものがそのまま残っているべきだと考える人もいれば、
岡本太郎さんの絵画は貴重であり、汚されるべきではないと考える人もいて、
渋谷のあの絵を、ベニヤを貼り付ける前の状態こそが洗練された完成形と考える人もいて。
それに癒される人もいて。全く癒されない自分もいて。
人通りの多いあの空間に飾られた時点で、多数派の論理が働いて何かしらの規範が生まれている
ことを考えれば、自分のやりたい事をとりあえずやるのは非常識なただのエゴイスト。
規範に背く人間は、常に煙たがられるもので、それはそれでアーティストとして必要な資質かもしれないけど、
けれど、今の世の中いいのか悪いのか分からないけれど、それを許してくれない。
うまく、良い作品を作ってくれればと思う。
岡本太郎さんの「明日の神話」にいたずらがされたとのこと。
ちょうどグラフィティの研究をしていたとき、メキシコのホテルに飾られるはずの岡本太郎さんの絵画が
日テレかどこかで展示されるとニュースでやっていた。
当時はかなりニュースで流れていて、グラフィティのスケールをはるかに超える
(もちろんビル一面に描かれたグラフィティもあるから一概には言えないけれど)
壮大な絵画を見たいと本気で思った。
結局新橋まで行くのが億劫で行かなかったけれど。
社会人になり渋谷のあの道をしばしば通ることになり、いつもは下を向きながらあるく自分だれど、
あの絵の前を通るときはほとんど上を向いて、眺めてきた。
数十回と見たと思う。
とにかくスケールのでかさに毎回圧倒されて、見るたび陰鬱さを帯びた絵に
どすぐろい感情を喚起されつつ、「果たしてこの絵を見て大きさ以外に誰が何を感じるんだろう。」
と感じていたのを覚えている。
今でも渋谷に行くときはよく見るけど、未だに自分はあの絵の見方が分からない。
大きさに圧倒されはすれど、感動もしないし感慨深くもならないし、爆発もしない。
でも好きだから不思議だ。
その絵の隅っこ、に、四つの原発の絵が書かれたキャンパス。
作者の意図とは反して「置かれた」この絵をどう捉えるか。
一つ、岡本太郎はそんな小さなことに怒る天才か?
二つ、絵画とは全てが額縁に飾られた、何人も触れることが出来ない穢れ無き存在をさすのか。
三つ、過去の偉人をある所縁の無い個人が「活用」して良いのか。
四つ、手法としてどうなのか。
一つ目は、岡本太郎記念館館長のコメントがそれに答えている。
「太郎が生きていても、別に怒らなかったと思いますよ。『ふーん』というだけでしょう」
本人が生きていたら「なんで直接書かない!」とでも怒るのだろうのか。
上の『ふ~ん』にはやり方たいしたこと無いなという皮肉がたっぷり詰まっている。
きっと、岡本太郎さんが生きていても怒ったりショックを受けたりしなかったんだろう。
二つ目。
20世紀の美術は額縁という二次元の世界と写実という柵から抜け出すための時代でもあったと思う。
二次元の中でいかに表現の枠を広げるか、
二次元を超えて三次元、額縁の中の二次元を越えて違う二次元へというのが
潮流を経ての現代の絵画。
仮に、今回の事が美術館の中の湿度と額縁と警備員と学芸員に
守られた空間で起こったことなら、問題だと思う。
その場合は、二次元でもなお人を感動させるに値する絶対的な存在として、
出来る限り製作時点の状態に保たれた絵画がそこにあるからだ。
けれど、今回の絵画は元々ホテルに設置する予定だったもので、
そのスケールから見ても大気やら人やらから守られようとして作られたものではないことは、明らか。
誰もが自由にアクセスが出来る場所に置かれ、そこで何かしらのハプニングが起こりうるものと想定して
作られなければ、こんな大きさには決してならない。
そして今、渋谷という自由なパブリックスペースに設置されることを
岡本太郎さんが知っていたのかどうかは知らないけれど、
そこに設置する許可をした人間はハプニングが起こる可能性を考えなかったなんてことはありえない。
ある程度、何かしらの外的要素が加わって原型から変わることを想定して出来上がった芸術。
絶対的に書き上げたその当時のままの存在でなければならないという意志が無き芸術ならば、
そこで何が起ころうと必然であり、それを含めての岡本太郎さんの作品ではないか。
美術館やお金持ちの豪邸の中でしっとりと守られるという前提は、
この絵画には無用な存在なのだと思う。
三つ目、今回chim↑pomというアーティスト集団が自分たちがやったことを自分から披露した点で、
「現実に対して問題提起をする」ためのアートではなく、自己満足あるいは売名に成り下がった。
社会に対して問題提起をしたいのならば、このようなインパクトのある方法を取った時点で自分の存在を人に知らしめる必要性はゼロだろう。
渋谷に飾られた有名アーティストの壁画、右隅に描かれた四つの原発。
岡本太郎さんの絵にいたずらが、というだけでまずインパクトがある。
さらに、少し調べれば今回いたずらされた絵が核をモチーフにしていることなんてすぐに分かる。
結果、「誰がこんな悪質なことを・・・」とテレビや新聞やネットを見ながらぶつぶつ言いながらも、
「核をモチーフにした作品に原発が描かれるという事は、それに対する問題意識を喚起している」
という論理は誰でもすぐに導かれる。
本当にアートを通じて社会に問題提起したいならば、
誰がそれを実行したかなんてそこには全く必要なく、なぜやったかなんて言う必要もない。
そもそもアートというのは、説明なんていらない存在なはずでは無いのか。
名乗る必要なんて無かったのに名乗ってしまった時点で、
アートではなくこの人達が岡本太郎さんをダシにしたようにしか自分には思えなかった。
名乗らずひっそりと社会の成り行きを静観する人が今回のようなことをしていたなら、と残念な気持ち。
四つ目、手法としてどうなのか。
ハプニング、パフォーマンス、インスタレーションといった美術の流れの中での行為か、
あるいはストリートアート(グラフィティではない)としての行為か、二つ考えたが、
芸術家を標榜している以上前者なんだろうと思う。
だとしたら、かなり古めかしいことをやっている。
20世紀半ば過ぎから実践されてきたこれらのパフォーマンス系アートは、
アイデアと扱う題材と「これはアートだ」という一言で決まっている気がする。
極端に言えば、やると決めれば誰でもできるものが大半ではないか。
捉える人によっては「それがどうした?」の一言で完結する、
限界がある表現方法を今更踏襲して、
ではここにしかない先見性は今回のやり方のどこにあるのか。
それが見えないと、それこそ欺瞞に満ちた自己満足にしか捉えられないのではないか。
一方、仮に後者のストリートアートを念頭に行っているとしたら、今回のはbanksyのただのパクリだ。
やり方も、描き方も。
どちらにしても、そんなに目新しいことをしている訳ではないと思う。
色々とつらつら書いてきたけれど、自分の中では素性を名乗りさえしなければアリだと思う。
だけど、自分の存在を世に知らしめて、そしてそれが芸術家であった時点でアウト。
がっかりした。
結局は自己満足のアーティストがたいした新しいこともせずに人の作品に乗っかってさらに世の中騒がせて、
「アートですよ。」って勝手に言って酔ってるだけにしか見えない。
学生でもないのに学生ノリ、見たいな気持ち悪さ。
別に展覧会の広告のためにやってようが自分が楽しいからやってようがそんなことは何でもけど、
アーティストなら、一切の外部要因を取り除いて作品一つで人の心揺さぶるべきではないか。
最後に一つ。
絵画は作者の伝えたいものがそのまま残っているべきだと考える人もいれば、
岡本太郎さんの絵画は貴重であり、汚されるべきではないと考える人もいて、
渋谷のあの絵を、ベニヤを貼り付ける前の状態こそが洗練された完成形と考える人もいて。
それに癒される人もいて。全く癒されない自分もいて。
人通りの多いあの空間に飾られた時点で、多数派の論理が働いて何かしらの規範が生まれている
ことを考えれば、自分のやりたい事をとりあえずやるのは非常識なただのエゴイスト。
規範に背く人間は、常に煙たがられるもので、それはそれでアーティストとして必要な資質かもしれないけど、
けれど、今の世の中いいのか悪いのか分からないけれど、それを許してくれない。
うまく、良い作品を作ってくれればと思う。
Japanese freestyle battle
UMB(Ultimate MC Battle)という大会がある。
日本語ラップで、即興のフリースタイルバトル日本一を決める大会だ。
日本全国で予選をやって、北は北海道から南は沖縄までの選りすぐりのラッパーが、
1対1で相手を貶す。ディスる。たまにディスらない人もいたりする。
どっちが上手かったかは観客の歓声の大きさと、観客の中から選ばれた審査員の判定が決める。
両方のジャッジで勝ったラッパーが勝利。
楽しみ方のコツは5つ。個人的に。
1つはビート選び。
先攻は何も無い状態でラップを始めなければならない点不利なので、ビートが選べる。
3人のDJが選んだ中から自分の好きなトラックを選んでそれがバトルのビートになる。
DJ Premierが人気。観客が「おーっ」てなる。
middle schoolもうける。
他は日本語ラップのクラシックなトラックが良くうける。
こいつがバトルの雰囲気を決めるって言ってもいいくらいなので、とにかく重要。
2つめはラッパーのタイプ。
ひたすら韻を踏むラッパーもいれば、
フローで聞かせるラッパーもいる。
ギャグラッパーもいる。
オラオラ言ってるラッパーもいる。
何言ってるか全く分からないラッパーもいる。
とにかく色んなタイプのラッパーが対戦し合うから、
微妙にどっちが上手いのか分からない良い試合が出来上がったりする。
3つめは観客の沸きどころ。
きっちり韻でおとしたり、相手の痛いところついたり、パンチライン繰り出したり、
お客の反応がラップの出来そのまま反映するから、
DVDで見てても「うわ~」って思うところと一緒だったりして楽しかったりする。
4つ目は地方のラッパー。
東京代表がいつも強いけど、地方のラッパーが独特の良い味を出してたりする。
個人的には北海道代表と岡山代表が独特の発達の仕方してて、面白い気がする。
北海道はきっとブルーハーブの影響が強いんやろうな~と思う。リリカル。
岡山は何があるのか分からないけど、ラップがかなり攻撃的。
沖縄は方言織り交ぜたりしてて、それはそれで面白い。
最後に男臭さ。
昔からクラブに行くたび思ってたことだけど、とにかく男臭い。
観客も男ばっかり、ステージも男ばっかり、歓声も太いし、ラッパーのインタビューもストイック。
かなり明るいステージだけどバトルが始まると赤いライトとブルーのライトだけ、
どんよりしたHiphopの空気が漂ってる。
ざっくりと楽しいところを書いたけど、書いた内容振り返るとやっぱり自分が好きなだけって気がしてきた。
これまで2人にDVDを貸したけどどっちも反応はイマイチだった。
軽く鼻で笑われて終わった感じ。
思えば、ラップのフリースタイルに感銘を受けたのはB-Boy Park 2001でKREVAが3回目の優勝をした年、
きったないmpegをダウンロードして見たことに始まる。
その時のラップはギャグの延長みたいな感じで楽しかった気がする。
確かその次の年に、般若 vs 漢のバトルがあって、フリースタイルてこういうもんなんやと思ったのを覚えている。
これまた確かmpegできったないの落として、何回も見た。
そして間をおいて今、再燃。
まだ持っていないDVDの分とかDVDになっていないバトルとかをyoutubeとかで見ると、
年代によってかなり形が変わってきているのが分かる。
とにかく2004年くらいまでのB-Boy parkのバトルは、文章の脈絡そっちのけで韻踏んだもん勝ち。
meisoが、今のラップの流れ先駆けみたいな感じ。
フローも韻もライムもトータルでぶつけるスタイルはかなり新鮮だったろうな~と思う。
2005年~2006年の3 on 3とかUMBは、今の流れになる過渡期という感じで、玉石混交。
上手い人が突出してる感じ。
でも、ForkとかHIDADDYとかがバリバリ一線を走ってるのを見ると、やっぱり硬い韻が強い。
その後はライムもフローも韻も相手ズバッと切り込む感じも、
全部織り交ぜてかつ音楽的に聞かせるような感じになってる。
バトルが一つの曲になってる、そんな一戦も多々ある。
とにかく、レベルが高い!即興で言葉を繰り出すレベルが高い。
バトル云々とかいう以前に、世の中でこれだけ即興で相手に何かを伝えられる人間がどれだけいるのやら。
もちろん、フリースタイルと言いつつその大半は家のノートにびっしりライムが書き綴られているんだろう。
でも、それを千人越える人の前で、相手の出方に合わせて切り替えしができるっていうのは神業。
ストイックにラップに向かってる彼らは、めちゃめちゃカッコいい。到底真似できる技じゃないと思う。
ジャパネット高田もスティーブジョブスも、彼らには絶対に勝てない。
好きな音楽はと聴かれてRapと答えると、意外と人はバカにする。
でも、Rapは色んな音楽を取り込んで、確実に進化している。
音の抑揚が無い世界で、新しい表現が確立されている。
Hiphop is not dead.
地下の暗がりで、カラフルさはなく、彩りはなく、
重たいビートに人のストレートな思いを走らす。
ひたすらシンプルかつ直感的。
たまにはそんな音楽も良いのでは。
このままyoutubeかニコニコ動画かに飛んで、「umb」で検索を!
とにかくヨーヨーヘイヨーで
きらきらした重たそうなジャラジャラしたのぶら下げて
金か葉っぱか女か悪友しか能が無い族集団みたいに
捉えられがちなhiphopやrapの印象が払拭されるはず。
日本語ラップで、即興のフリースタイルバトル日本一を決める大会だ。
日本全国で予選をやって、北は北海道から南は沖縄までの選りすぐりのラッパーが、
1対1で相手を貶す。ディスる。たまにディスらない人もいたりする。
どっちが上手かったかは観客の歓声の大きさと、観客の中から選ばれた審査員の判定が決める。
両方のジャッジで勝ったラッパーが勝利。
楽しみ方のコツは5つ。個人的に。
1つはビート選び。
先攻は何も無い状態でラップを始めなければならない点不利なので、ビートが選べる。
3人のDJが選んだ中から自分の好きなトラックを選んでそれがバトルのビートになる。
DJ Premierが人気。観客が「おーっ」てなる。
middle schoolもうける。
他は日本語ラップのクラシックなトラックが良くうける。
こいつがバトルの雰囲気を決めるって言ってもいいくらいなので、とにかく重要。
2つめはラッパーのタイプ。
ひたすら韻を踏むラッパーもいれば、
フローで聞かせるラッパーもいる。
ギャグラッパーもいる。
オラオラ言ってるラッパーもいる。
何言ってるか全く分からないラッパーもいる。
とにかく色んなタイプのラッパーが対戦し合うから、
微妙にどっちが上手いのか分からない良い試合が出来上がったりする。
3つめは観客の沸きどころ。
きっちり韻でおとしたり、相手の痛いところついたり、パンチライン繰り出したり、
お客の反応がラップの出来そのまま反映するから、
DVDで見てても「うわ~」って思うところと一緒だったりして楽しかったりする。
4つ目は地方のラッパー。
東京代表がいつも強いけど、地方のラッパーが独特の良い味を出してたりする。
個人的には北海道代表と岡山代表が独特の発達の仕方してて、面白い気がする。
北海道はきっとブルーハーブの影響が強いんやろうな~と思う。リリカル。
岡山は何があるのか分からないけど、ラップがかなり攻撃的。
沖縄は方言織り交ぜたりしてて、それはそれで面白い。
最後に男臭さ。
昔からクラブに行くたび思ってたことだけど、とにかく男臭い。
観客も男ばっかり、ステージも男ばっかり、歓声も太いし、ラッパーのインタビューもストイック。
かなり明るいステージだけどバトルが始まると赤いライトとブルーのライトだけ、
どんよりしたHiphopの空気が漂ってる。
ざっくりと楽しいところを書いたけど、書いた内容振り返るとやっぱり自分が好きなだけって気がしてきた。
これまで2人にDVDを貸したけどどっちも反応はイマイチだった。
軽く鼻で笑われて終わった感じ。
思えば、ラップのフリースタイルに感銘を受けたのはB-Boy Park 2001でKREVAが3回目の優勝をした年、
きったないmpegをダウンロードして見たことに始まる。
その時のラップはギャグの延長みたいな感じで楽しかった気がする。
確かその次の年に、般若 vs 漢のバトルがあって、フリースタイルてこういうもんなんやと思ったのを覚えている。
これまた確かmpegできったないの落として、何回も見た。
そして間をおいて今、再燃。
まだ持っていないDVDの分とかDVDになっていないバトルとかをyoutubeとかで見ると、
年代によってかなり形が変わってきているのが分かる。
とにかく2004年くらいまでのB-Boy parkのバトルは、文章の脈絡そっちのけで韻踏んだもん勝ち。
meisoが、今のラップの流れ先駆けみたいな感じ。
フローも韻もライムもトータルでぶつけるスタイルはかなり新鮮だったろうな~と思う。
2005年~2006年の3 on 3とかUMBは、今の流れになる過渡期という感じで、玉石混交。
上手い人が突出してる感じ。
でも、ForkとかHIDADDYとかがバリバリ一線を走ってるのを見ると、やっぱり硬い韻が強い。
その後はライムもフローも韻も相手ズバッと切り込む感じも、
全部織り交ぜてかつ音楽的に聞かせるような感じになってる。
バトルが一つの曲になってる、そんな一戦も多々ある。
とにかく、レベルが高い!即興で言葉を繰り出すレベルが高い。
バトル云々とかいう以前に、世の中でこれだけ即興で相手に何かを伝えられる人間がどれだけいるのやら。
もちろん、フリースタイルと言いつつその大半は家のノートにびっしりライムが書き綴られているんだろう。
でも、それを千人越える人の前で、相手の出方に合わせて切り替えしができるっていうのは神業。
ストイックにラップに向かってる彼らは、めちゃめちゃカッコいい。到底真似できる技じゃないと思う。
ジャパネット高田もスティーブジョブスも、彼らには絶対に勝てない。
好きな音楽はと聴かれてRapと答えると、意外と人はバカにする。
でも、Rapは色んな音楽を取り込んで、確実に進化している。
音の抑揚が無い世界で、新しい表現が確立されている。
Hiphop is not dead.
地下の暗がりで、カラフルさはなく、彩りはなく、
重たいビートに人のストレートな思いを走らす。
ひたすらシンプルかつ直感的。
たまにはそんな音楽も良いのでは。
このままyoutubeかニコニコ動画かに飛んで、「umb」で検索を!
とにかくヨーヨーヘイヨーで
きらきらした重たそうなジャラジャラしたのぶら下げて
金か葉っぱか女か悪友しか能が無い族集団みたいに
捉えられがちなhiphopやrapの印象が払拭されるはず。
GW@2011
2011年のゴールデンウィークを振り返ってみる。
4/29 家でボーっとする
4/30 イオンレイクタウン(&アウトレット)
5/1 家でボーっとする
5/2 出勤
5/3 家でボーっとする&松戸に出かける
5/4 家でボーっとする
5/5 家でボーっとする&モンハン
5/6 家の近所を散策、読書
5/7 富士芝桜&イチゴ狩りバスツアー
5/8 家でボーっとする&スーパー銭湯
こうやって振り返ると結構終わってるGWだった。
というか、そもそもGWが充実していたことなんてこの人生始まって以来一度も無い気がする。
とにかく外に出れば人だらけで、外に出る気もしない。
かといって、家で何かしようというわけでもない。
今年に入ってFacebookをはじめたけれど、このGWであれは自分には凄く鬱陶しいサイトだと感じた。
いろんな人がいろんなところに行っていろんな写真を取ったりツイッターでコメントしたり、
最初はそれなりに「へー」という気持ちで見てたけれど、いろんな所に行く周りの状況を見て
嫌な気持ちになってきた。どこにも行ってない自分が駄目なような、みすぼらしい気がして。
被災地に行った友達が、自分は状況全部分かってて、行ってない人はとりあえず行って来い
みたいな事書いててイラッともした。
復興支援サイト調べたらGW中は来られても困るって現地の人言ってるし(掲示板にもいっぱいそう書いてあるし)、
行きたいって言ったら奥さんに行かないで欲しいって言われた人もいるわけだ。
いや、とはいいつつ自分も家で何かすればよかったんだけれど。
今更ながら、これだけ家でボーっとする暇があれば、
長年のpending issueになっている英語とか、ホームページ作りをすれば良かった。
毎日ここに何か書けばよかった。
時間を確実に持て余した。気がする。
でも、そうやってコツコツ時間を無駄にしてきた28年だから、
今更後悔するのもそれは見当違い。
やる人は勝手に気づいて勝手に何かやるんだろう。
というわけで反省の念があるので、GW最終日ながら、HP作りに取り掛かろうと思う。
やりたいと思ってたことだけれど、ずっとやらずにいたこのHP作り。
幸い昔買ったWebサイトつくるツールと最低限のWeb知識は備えている。
今の提案が通れば次にWebシステムを作ることも決まっているので、
それに向けた学習にもなるからちょうど良い。
このボーっとしているGW中はほとんどネットサーフィンをしてたので、
とにかくいろんなサイトを見た。
自分の中では無駄に過ごした時間であることは分かりつつも、
それを敢えて無駄と捉えず情報収集と捉えれば
無益に思えた時間も有意義なものに変わる。
何の意味も無い時間だといって何も考えずに何も感じていないわけではない。
行動そのものは怠惰、でも呼吸をして脳みそ使って、視覚と聴覚をフルに使って
ボーっと過ごすというのは、決して何もしていないわけではない。
全てに意味があって、それは何か他に繋がる。
ポジティブに行こう。
4/29 家でボーっとする
4/30 イオンレイクタウン(&アウトレット)
5/1 家でボーっとする
5/2 出勤
5/3 家でボーっとする&松戸に出かける
5/4 家でボーっとする
5/5 家でボーっとする&モンハン
5/6 家の近所を散策、読書
5/7 富士芝桜&イチゴ狩りバスツアー
5/8 家でボーっとする&スーパー銭湯
こうやって振り返ると結構終わってるGWだった。
というか、そもそもGWが充実していたことなんてこの人生始まって以来一度も無い気がする。
とにかく外に出れば人だらけで、外に出る気もしない。
かといって、家で何かしようというわけでもない。
今年に入ってFacebookをはじめたけれど、このGWであれは自分には凄く鬱陶しいサイトだと感じた。
いろんな人がいろんなところに行っていろんな写真を取ったりツイッターでコメントしたり、
最初はそれなりに「へー」という気持ちで見てたけれど、いろんな所に行く周りの状況を見て
嫌な気持ちになってきた。どこにも行ってない自分が駄目なような、みすぼらしい気がして。
被災地に行った友達が、自分は状況全部分かってて、行ってない人はとりあえず行って来い
みたいな事書いててイラッともした。
復興支援サイト調べたらGW中は来られても困るって現地の人言ってるし(掲示板にもいっぱいそう書いてあるし)、
行きたいって言ったら奥さんに行かないで欲しいって言われた人もいるわけだ。
いや、とはいいつつ自分も家で何かすればよかったんだけれど。
今更ながら、これだけ家でボーっとする暇があれば、
長年のpending issueになっている英語とか、ホームページ作りをすれば良かった。
毎日ここに何か書けばよかった。
時間を確実に持て余した。気がする。
でも、そうやってコツコツ時間を無駄にしてきた28年だから、
今更後悔するのもそれは見当違い。
やる人は勝手に気づいて勝手に何かやるんだろう。
というわけで反省の念があるので、GW最終日ながら、HP作りに取り掛かろうと思う。
やりたいと思ってたことだけれど、ずっとやらずにいたこのHP作り。
幸い昔買ったWebサイトつくるツールと最低限のWeb知識は備えている。
今の提案が通れば次にWebシステムを作ることも決まっているので、
それに向けた学習にもなるからちょうど良い。
このボーっとしているGW中はほとんどネットサーフィンをしてたので、
とにかくいろんなサイトを見た。
自分の中では無駄に過ごした時間であることは分かりつつも、
それを敢えて無駄と捉えず情報収集と捉えれば
無益に思えた時間も有意義なものに変わる。
何の意味も無い時間だといって何も考えずに何も感じていないわけではない。
行動そのものは怠惰、でも呼吸をして脳みそ使って、視覚と聴覚をフルに使って
ボーっと過ごすというのは、決して何もしていないわけではない。
全てに意味があって、それは何か他に繋がる。
ポジティブに行こう。
『半島を出よ』読んで
村上龍の『半島を出よ』を読み終えた。
読み始めで違和感に気づいたが、この本の上巻部分を一度、自分は読んでいる。
ちゃんと記憶を辿ると大学院時代に図書館で借りて手にとって以来、5年越しでの読破となった。
高津区図書館で借りて、あまりに進むペースが遅いので読むのをやめた本だった。
あまりに一つ一つの場面を事実に基づこうとするあまり、本筋の周りの具体的な描写が妙に目につく感覚は
当時と変わらず今も同じだったが、それでも通勤という時間は否応無く決まった時間かそれ以上の時間を
手持ち無沙汰にさせるので自然とダラダラした印象は当時ほど受けなかった。
本書は、北朝鮮から侵略してきた軍隊と、
侵略された九州の住民、
日本政府、
社会の常識に迎合できず一般的な社会から阻害されたアウトサイダー、
様々な立場から日本と北朝鮮の攻防を描いた小説である。
最終的には、侵略者に対して手をだせない「日本」に代わって
アウトサイダーが対抗するという流れになっている。
このタイミングでこの本を読む事は、自分にとって色々考えさせられるきっかけになった。
本書の「北朝鮮からの侵略」と現在の日本の「震災」と大きく状況は異なるものの、
一つ、日本に対する周囲の諸外国の目が変わるという点で、
一つ、日本で活動する様々な立場の人間がその時どういう行動を取るかという点で
本書で示唆する事は多くの部分で現状の日本を示している。
例えば侵攻されたことに対し、記者から問い詰められた政治家は
知らぬ、検討している、毅然として対応するといった具体性なき言い逃れで決定を先伸ばしにする。
気がつけば事態は侵攻側の先手先手で取りうる方策がなくなっている。
やがて不明確な可能性も無数に現れて、その可能性に取り付かれて身動きが取れなくなる。
例えば経済が凋落し、さらに侵攻という非常事態が起こったことに対し
これまで尽くしてきた国からは最も"らしい"理由で手を貸してもらえず、
海外のメディアからは「日が堕ちる」と同情なのか嘲笑なのか分からぬ表現で
隆盛を極めた国を客体として外国らしいユーモアで皮肉に描かれる。
例えば現場は状況を打開できぬ政府に対し愛想を尽かし、
むしろ侵攻側に寄りそい、国というものを外敵のように捉えるようになる。
他にも、諸々の状況を投影させる場面がある。
ただ、これについてダラダラと書いたところで行き着く先は
「政府や大組織のアホさ」に終始する以外に道は無いため、そんなことは書かなくとも周知の事実。
むしろ目を向けるべきは、希望を持たせる部分である。
小説も今の日本も、偉そうな立場にいない現場の人間がとにかく力を発揮する。
非常事態が起こって、その場にいる一人の人間の強さで事態を打開しようとする。
状況を把握し、そのとき何をしなければならないかを自分たちで判断し、解決するための方策を練り、行動に移す。
テレビで見る被災地の人達は自分には持ち得ない力強さというか、生きること・状況を好転させるための執念を凄く持っている。
今自分にできる事に必死で、悲観するだけの人はほとんどテレビ越しに見たことがない。
人間一人の力強さの大きさが、何よりも強いという事を感じさせられる。
(もちろんメディアの切り取り方次第という話もあるとは思うが。)
そしてこれは小説には無かったことだが、今回の震災では全く縁の無い人間も大きく力を発揮している。
今日見たニュースは、海外の発展途上国の人が日本の被災地に対して義援金を送るというものだった。
普段日本からの支援を受けている恩返しかどうかは分からないが、
現状自分たちの生活を守る事すら大変な状況の人達が全くの他人のために援助するというのは
なかなかできることではないと思う。
金額は日本円で8万円程度(現地の月収一か月分程度らしい)という事だから、
今集まっている義援金総額で見れば小さなものだが、
何かが起こったときに互いに助け合うという精神はお金では計れない、
とても大きな意味を持つものではないか。
日本中で起こっている募金も同じ事が言える。
日本という同じ国に住んで日本人であるという事を除いて
共通項を持たない人が、休みの日に街中で呼びかけこたえる。
正直なところ、「募金なんて胡散臭いもの」と考えていた自分は
一生募金なんてしないと思っていた。
が、今は街中で募金箱を見るたび、それが胡散臭かろうがどうだろうが
できる事はしたいと思うようになっている。
(自分がやった募金なんて、もっと頑張っている人に比べれば同じ土俵にたてないほど些細なことだが。)
小説でも、今の日本でも、とにかく一人の人間が大きな意味を持つ。
立場や住んでいる場所や性別や国籍、色々な枠を無視して、
一人の人間が立ち、複数の人間と繋がり、一つ一つ状況を打開する。
村上龍の小説は、「希望」というものを問うものが多い。特にそれを「絶望」の中に問う。
今の日本と世界で「希望」と呼べるものは、全部の建前を取っ払った人間そのものの力強さではないか。
そして、その力強さが繋がる事である。
陳腐かつ当然の事に見えるかもしれないが、どれだけ技術が進歩して、組織が発達しても、
それ以上のものはないように自分は思う。
読み始めで違和感に気づいたが、この本の上巻部分を一度、自分は読んでいる。
ちゃんと記憶を辿ると大学院時代に図書館で借りて手にとって以来、5年越しでの読破となった。
高津区図書館で借りて、あまりに進むペースが遅いので読むのをやめた本だった。
あまりに一つ一つの場面を事実に基づこうとするあまり、本筋の周りの具体的な描写が妙に目につく感覚は
当時と変わらず今も同じだったが、それでも通勤という時間は否応無く決まった時間かそれ以上の時間を
手持ち無沙汰にさせるので自然とダラダラした印象は当時ほど受けなかった。
本書は、北朝鮮から侵略してきた軍隊と、
侵略された九州の住民、
日本政府、
社会の常識に迎合できず一般的な社会から阻害されたアウトサイダー、
様々な立場から日本と北朝鮮の攻防を描いた小説である。
最終的には、侵略者に対して手をだせない「日本」に代わって
アウトサイダーが対抗するという流れになっている。
このタイミングでこの本を読む事は、自分にとって色々考えさせられるきっかけになった。
本書の「北朝鮮からの侵略」と現在の日本の「震災」と大きく状況は異なるものの、
一つ、日本に対する周囲の諸外国の目が変わるという点で、
一つ、日本で活動する様々な立場の人間がその時どういう行動を取るかという点で
本書で示唆する事は多くの部分で現状の日本を示している。
例えば侵攻されたことに対し、記者から問い詰められた政治家は
知らぬ、検討している、毅然として対応するといった具体性なき言い逃れで決定を先伸ばしにする。
気がつけば事態は侵攻側の先手先手で取りうる方策がなくなっている。
やがて不明確な可能性も無数に現れて、その可能性に取り付かれて身動きが取れなくなる。
例えば経済が凋落し、さらに侵攻という非常事態が起こったことに対し
これまで尽くしてきた国からは最も"らしい"理由で手を貸してもらえず、
海外のメディアからは「日が堕ちる」と同情なのか嘲笑なのか分からぬ表現で
隆盛を極めた国を客体として外国らしいユーモアで皮肉に描かれる。
例えば現場は状況を打開できぬ政府に対し愛想を尽かし、
むしろ侵攻側に寄りそい、国というものを外敵のように捉えるようになる。
他にも、諸々の状況を投影させる場面がある。
ただ、これについてダラダラと書いたところで行き着く先は
「政府や大組織のアホさ」に終始する以外に道は無いため、そんなことは書かなくとも周知の事実。
むしろ目を向けるべきは、希望を持たせる部分である。
小説も今の日本も、偉そうな立場にいない現場の人間がとにかく力を発揮する。
非常事態が起こって、その場にいる一人の人間の強さで事態を打開しようとする。
状況を把握し、そのとき何をしなければならないかを自分たちで判断し、解決するための方策を練り、行動に移す。
テレビで見る被災地の人達は自分には持ち得ない力強さというか、生きること・状況を好転させるための執念を凄く持っている。
今自分にできる事に必死で、悲観するだけの人はほとんどテレビ越しに見たことがない。
人間一人の力強さの大きさが、何よりも強いという事を感じさせられる。
(もちろんメディアの切り取り方次第という話もあるとは思うが。)
そしてこれは小説には無かったことだが、今回の震災では全く縁の無い人間も大きく力を発揮している。
今日見たニュースは、海外の発展途上国の人が日本の被災地に対して義援金を送るというものだった。
普段日本からの支援を受けている恩返しかどうかは分からないが、
現状自分たちの生活を守る事すら大変な状況の人達が全くの他人のために援助するというのは
なかなかできることではないと思う。
金額は日本円で8万円程度(現地の月収一か月分程度らしい)という事だから、
今集まっている義援金総額で見れば小さなものだが、
何かが起こったときに互いに助け合うという精神はお金では計れない、
とても大きな意味を持つものではないか。
日本中で起こっている募金も同じ事が言える。
日本という同じ国に住んで日本人であるという事を除いて
共通項を持たない人が、休みの日に街中で呼びかけこたえる。
正直なところ、「募金なんて胡散臭いもの」と考えていた自分は
一生募金なんてしないと思っていた。
が、今は街中で募金箱を見るたび、それが胡散臭かろうがどうだろうが
できる事はしたいと思うようになっている。
(自分がやった募金なんて、もっと頑張っている人に比べれば同じ土俵にたてないほど些細なことだが。)
小説でも、今の日本でも、とにかく一人の人間が大きな意味を持つ。
立場や住んでいる場所や性別や国籍、色々な枠を無視して、
一人の人間が立ち、複数の人間と繋がり、一つ一つ状況を打開する。
村上龍の小説は、「希望」というものを問うものが多い。特にそれを「絶望」の中に問う。
今の日本と世界で「希望」と呼べるものは、全部の建前を取っ払った人間そのものの力強さではないか。
そして、その力強さが繋がる事である。
陳腐かつ当然の事に見えるかもしれないが、どれだけ技術が進歩して、組織が発達しても、
それ以上のものはないように自分は思う。
20110409雑感
震災について何か書こうかと思ったが、パソコンを前にして自分で書けることがほとんど無いという事に気づいた。
仕事や日常生活で節々で震災の事は思い出させられるし、小さいながらも余震が続いている事には不安感もある。
ただ、ニュースで被災地の方々の状況を見るたび、Facebookで東北の友人が今の状況に対して必死で頑張っている姿を見るたび、
余韻がなくなっていないとはいえ、いつもの東京に戻ってしまってそこで安住している自分に語れることなぞ何もないのではないか、
そもそも資格など無いという気分になってしまう。
今回の震災を受けて、せいぜい募金程度のアクションしかできない自分には、これについて偉そうに物を語れる立場に無い。
「一刻も早い復興を願う」という言葉を出す事すら、恐れ多い。
とにかく、
一人でも多くの人が救われて、
一人でも多くの人が笑える状況に早くなって欲しい。
現地の子供にすくすくと、元気に育って欲しい。
文面にした時点で偽善かつ他人事のように見えてしまうけれど、心底そう思う。
人と永遠に別れる事に対しての、自分なりの経験に基づく本音。
建物や財産が無くなったり、
避難所生活の過酷さというのは、
自分の経験には無かったことだから、
それにはどうこう言えない。
けれど、人との出会いと別れは自分の人生でも経験したことがある。
大事な人と否応無く分かれなければならない事の辛さ、無力さ、絶望感は
少ないながらも感じて生きてきた。
とにかく、命だけでも永らえて、笑顔が一つでも多くあって欲しい。
今の自分には、募金くらいしか手助けできることが無い。
日常の日常化は日々進み続けるけれど、他に何ができるか考えながら生活しようと思う。
仕事や日常生活で節々で震災の事は思い出させられるし、小さいながらも余震が続いている事には不安感もある。
ただ、ニュースで被災地の方々の状況を見るたび、Facebookで東北の友人が今の状況に対して必死で頑張っている姿を見るたび、
余韻がなくなっていないとはいえ、いつもの東京に戻ってしまってそこで安住している自分に語れることなぞ何もないのではないか、
そもそも資格など無いという気分になってしまう。
今回の震災を受けて、せいぜい募金程度のアクションしかできない自分には、これについて偉そうに物を語れる立場に無い。
「一刻も早い復興を願う」という言葉を出す事すら、恐れ多い。
とにかく、
一人でも多くの人が救われて、
一人でも多くの人が笑える状況に早くなって欲しい。
現地の子供にすくすくと、元気に育って欲しい。
文面にした時点で偽善かつ他人事のように見えてしまうけれど、心底そう思う。
人と永遠に別れる事に対しての、自分なりの経験に基づく本音。
建物や財産が無くなったり、
避難所生活の過酷さというのは、
自分の経験には無かったことだから、
それにはどうこう言えない。
けれど、人との出会いと別れは自分の人生でも経験したことがある。
大事な人と否応無く分かれなければならない事の辛さ、無力さ、絶望感は
少ないながらも感じて生きてきた。
とにかく、命だけでも永らえて、笑顔が一つでも多くあって欲しい。
今の自分には、募金くらいしか手助けできることが無い。
日常の日常化は日々進み続けるけれど、他に何ができるか考えながら生活しようと思う。
休暇最終日
1/11から続いた長い休みも今日で最後になった。
年明けすぐの時は今の自分の状況をまさか想像すらしていなかったが、休みも最後になると改めて「自分は休んでたんだなぁ。」と実感させられる。
初めて病院に行ったとき、そして会社の産業医に会った時「半月の休みなんてまったく長くないですよ」という気休めを言っていて、長くないわけが無いと思ったけれど、こう振り返ってみると全く長くなかった。
病気での休暇のためできることは制限されているため、せいぜい散歩か図書館での読書が関の山だったけれど、それなりに自分の世界が広くなる予感を、休み始めて気持ちが落ち着いた頃に持っていた。振り返ると、そんな世界が広がるほど長い休みというわけではなかった。
ここで、このタイミングに書きたいことは2つ。
不本意ながらも病欠という形で会社を一時ドロップアウトしたことへの振り返りと先の自分に向けてどうしていけばよいかを一つ。
もう一つは、この休みを通じてさほど広がらなかった世界、だけど確実に社会人生活とはかけ離れた色を持っていた貴重な休みについて一つ。
まずは、病欠したことについて。
年末からの体調不良(正確には睡眠障害と過度の不安感)は、1/11の長期休暇確定知らせと、周囲への自信の状態の相談を通してかなり解消された。その後のからっぽの休暇を通じて、完全に解消した。時折職場からの連絡はあるものの、上司が親切に自分の手から完全に切り離してくれたおかげで仕事について聞かれても前みたいな強迫観念や周囲への気遣いをまったくせずに済んだ。睡眠時間も十分取れている。体調としては完全回復だ。
正直なところ、先々週の頭から会社に出社してもなんら問題なかったのでは、と思う。
むしろ、出社しないことによる劣等感と出社に対する不安感、そして会社員としての生活から離れた生活を送ることで確実に失われる社会人としての緊張感への不安感が大きくなっただけな気がしなくも無い。
(とはいえ、そんなことを言ってしまうとせっかく自分のためにサポートしてくれた色々な人に申し訳が立たないため、感じてはいるものの口に出したりしてはいけないと思っている。)
街中でスーツ姿を見るたびに感じる劣等感が、意外にこの休みで一番感じたモヤモヤかもしれない。後は図書館でせっせと勉強に勤しむ若い人やお年寄りか。
振り返り。気持ちとしては、
1/10の週・・・職場への申し訳なさと、自分のふがいなさに対する悔しさでいっぱい
1/17の週・・・職場への申し訳なさは前半で薄れて、休みをどう過ごすかに気持ちが切り替わる
1/24の週・・・休んでいる状況に対することだけ考える
1/31今日・・・明日からの職場復帰について少し不安
という具合に変遷している。
こう文字にして書いてみると、1月いっぱいの休暇を宣言したお医者さんの判断はあながち長すぎず、短すぎずというようにも感じなくもないか。つまりは、この休暇を通じて、前を向けているという事なのか。
とにかく、今は出社が苦に感じないが、やはり不安はある。
元々自分が携わっていた仕事が無事3月で終えてお客様に喜んでもらえるのか。それについてとやかく言う権利はもう自分にはないけれど、やはり気になる。
後は職場に復帰して、やること。業務について軽く説明を受けているが、状況も全く分からなければそこにどういう立場で参画するのかもほとんど良く分からない。直近2月にやることが気になる。
そして、このまま順当に行けば4月には今まで通りの働き方になるが、同じ失敗を繰り返してしまわないか。今回は完全に自分で自分の感情(精神)をコントロールできず、周囲や環境に関係なく、自爆した。今自分が考えるべき一番のことは二度と自爆しないこと、自爆する前にちゃんと自分をコントロールすることだ。
1/11、病院に行って茫然自失で職場に向かい、色々な人と話をした。
そのとき周囲に話をしたことで、かなり追い詰められていた(自分で自分を追い詰めていた)状況から抜け出せた気がする。
周囲を信頼して、もっと早くに、病院に行く前にこの話を相談しておけば、というのが自分の後悔だ。
個人によってストレスの感じ方は違えど、なんとかなるやろうと「なぁなぁ」で自分をごまかしてきた結果が、今回の長期休暇だ。今後はこうなる前に妻でも会社の同僚でも、とにかく何でも良いからちゃんと相談をしようと思う。恥ずかしがらずに自分が持つ悩みをぶつければ、以外とみんなあっさり乗り越えてくれたりするものだという事を念頭に、明日からの仕事に向かいたいと思う。
後は、日々の業務に追われて世界を狭くしがちな自分の姿勢をこのタイミングで切り替えようと思う。
休暇前の自分は毎日毎日やらなければいけない事に忠実に前を向きすぎたせいで、抱える結果になったしおそらくは効率的な仕事もできていなかっただろうと思う。状況を好転するための一番の打開策は、目の前の出来事や仕事にまっすぐ向き合うことだけではダメで、適度に息を抜きつつ一発逆転ホームランを探して試しに狙ってみることでもあると感じた。
そこは、職場の先輩を真っ先に見習うべきだと思う。
時に自分の興味がある部分に注力したりサボってみたりして、息を抜くべきだ。
そして、そのサボっているかに見える部分に意外と仕事を効率的に行うためのミソが隠されていたりした。
その先輩のやり方を、率直に見習うべきだと思った。
仕事をやってる風に見せて、ちょっと休んでみたり、その休んでいる中から仕事をスムーズに進めるためのネタを用意してみたり。
(例えばExcelのショートカットキーを覚えたり小さなバッチやマクロを組んでみるだけで仕事の効率はグンと向上したりする)
時に遠回りこそが近道だという事をしっかり頭の片隅に植えつけておく。
あとは、先の自分に向けて。
2月から携わる仕事においては、とにかく仕事の中身を速く覚えること。
そして、仕事を速く覚えるためのクリティカルパスを常に意識し、効率的に仕事を進めるように努力すること。
情報収集、資料作成、社内事務、一つ一つの仕事をカイゼンしていくことがまず大事だと思う。
後は周囲との関わり方。色々な方向を向いて勝手に気を使っていたところで自分の負担が大きくなっていたのが今回の結果だったが、今後は気を使わなければならないぶぶんとそうでない部分の見極めをちゃんとする必要がある。上と同じ話になるけれど、息を抜く部分(周りにお世話になりきる部分)と、息を抜かずにしっかりやる部分(自分の全責任においてやり遂げる部分)をちゃんと区別していく。
一つの仕事の効率化と、負担の偏り無い周囲との関係構築。二つを意識して明日からの仕事に臨む。
後は今回の事がどこでどう言われているか、不安じゃないといえば嘘になるけれど、起こったものは覆らないしこれで何と言われてもちゃんと開き直ることが大事だ。
自分は悪いことはしていないし、自分でブレーキをかけたタイミングも間違っていないと思う。(その後の長期休暇を考えるとどうしても後悔が出てくるが、悔やんでも仕方が無いことだ)
周りがどうであれ、開き直って笑って仕事をすることが何より大事。
その中で、周囲に自分の成果を認めてもらえるよう振舞っていくことが大事。
間違っても卑屈な考えを持ったり、オチることを考えないようにしたいと思う。
とにかく元気と笑顔。
それだけは最低限徹底したい。
結局書きたかったことの一つ目だけで終わることになった。
もう一つは、今度ゆっくり書くことにする。休みを無駄に過ごさなかったかについても振り返ってみたい。
ここに書いていることは全てが自分への戒めだから、ひっそりローカルPCにとっておくべきかもしれないけれど、書いたものはもったいないので残しておく。
明日からがんばろう。
年明けすぐの時は今の自分の状況をまさか想像すらしていなかったが、休みも最後になると改めて「自分は休んでたんだなぁ。」と実感させられる。
初めて病院に行ったとき、そして会社の産業医に会った時「半月の休みなんてまったく長くないですよ」という気休めを言っていて、長くないわけが無いと思ったけれど、こう振り返ってみると全く長くなかった。
病気での休暇のためできることは制限されているため、せいぜい散歩か図書館での読書が関の山だったけれど、それなりに自分の世界が広くなる予感を、休み始めて気持ちが落ち着いた頃に持っていた。振り返ると、そんな世界が広がるほど長い休みというわけではなかった。
ここで、このタイミングに書きたいことは2つ。
不本意ながらも病欠という形で会社を一時ドロップアウトしたことへの振り返りと先の自分に向けてどうしていけばよいかを一つ。
もう一つは、この休みを通じてさほど広がらなかった世界、だけど確実に社会人生活とはかけ離れた色を持っていた貴重な休みについて一つ。
まずは、病欠したことについて。
年末からの体調不良(正確には睡眠障害と過度の不安感)は、1/11の長期休暇確定知らせと、周囲への自信の状態の相談を通してかなり解消された。その後のからっぽの休暇を通じて、完全に解消した。時折職場からの連絡はあるものの、上司が親切に自分の手から完全に切り離してくれたおかげで仕事について聞かれても前みたいな強迫観念や周囲への気遣いをまったくせずに済んだ。睡眠時間も十分取れている。体調としては完全回復だ。
正直なところ、先々週の頭から会社に出社してもなんら問題なかったのでは、と思う。
むしろ、出社しないことによる劣等感と出社に対する不安感、そして会社員としての生活から離れた生活を送ることで確実に失われる社会人としての緊張感への不安感が大きくなっただけな気がしなくも無い。
(とはいえ、そんなことを言ってしまうとせっかく自分のためにサポートしてくれた色々な人に申し訳が立たないため、感じてはいるものの口に出したりしてはいけないと思っている。)
街中でスーツ姿を見るたびに感じる劣等感が、意外にこの休みで一番感じたモヤモヤかもしれない。後は図書館でせっせと勉強に勤しむ若い人やお年寄りか。
振り返り。気持ちとしては、
1/10の週・・・職場への申し訳なさと、自分のふがいなさに対する悔しさでいっぱい
1/17の週・・・職場への申し訳なさは前半で薄れて、休みをどう過ごすかに気持ちが切り替わる
1/24の週・・・休んでいる状況に対することだけ考える
1/31今日・・・明日からの職場復帰について少し不安
という具合に変遷している。
こう文字にして書いてみると、1月いっぱいの休暇を宣言したお医者さんの判断はあながち長すぎず、短すぎずというようにも感じなくもないか。つまりは、この休暇を通じて、前を向けているという事なのか。
とにかく、今は出社が苦に感じないが、やはり不安はある。
元々自分が携わっていた仕事が無事3月で終えてお客様に喜んでもらえるのか。それについてとやかく言う権利はもう自分にはないけれど、やはり気になる。
後は職場に復帰して、やること。業務について軽く説明を受けているが、状況も全く分からなければそこにどういう立場で参画するのかもほとんど良く分からない。直近2月にやることが気になる。
そして、このまま順当に行けば4月には今まで通りの働き方になるが、同じ失敗を繰り返してしまわないか。今回は完全に自分で自分の感情(精神)をコントロールできず、周囲や環境に関係なく、自爆した。今自分が考えるべき一番のことは二度と自爆しないこと、自爆する前にちゃんと自分をコントロールすることだ。
1/11、病院に行って茫然自失で職場に向かい、色々な人と話をした。
そのとき周囲に話をしたことで、かなり追い詰められていた(自分で自分を追い詰めていた)状況から抜け出せた気がする。
周囲を信頼して、もっと早くに、病院に行く前にこの話を相談しておけば、というのが自分の後悔だ。
個人によってストレスの感じ方は違えど、なんとかなるやろうと「なぁなぁ」で自分をごまかしてきた結果が、今回の長期休暇だ。今後はこうなる前に妻でも会社の同僚でも、とにかく何でも良いからちゃんと相談をしようと思う。恥ずかしがらずに自分が持つ悩みをぶつければ、以外とみんなあっさり乗り越えてくれたりするものだという事を念頭に、明日からの仕事に向かいたいと思う。
後は、日々の業務に追われて世界を狭くしがちな自分の姿勢をこのタイミングで切り替えようと思う。
休暇前の自分は毎日毎日やらなければいけない事に忠実に前を向きすぎたせいで、抱える結果になったしおそらくは効率的な仕事もできていなかっただろうと思う。状況を好転するための一番の打開策は、目の前の出来事や仕事にまっすぐ向き合うことだけではダメで、適度に息を抜きつつ一発逆転ホームランを探して試しに狙ってみることでもあると感じた。
そこは、職場の先輩を真っ先に見習うべきだと思う。
時に自分の興味がある部分に注力したりサボってみたりして、息を抜くべきだ。
そして、そのサボっているかに見える部分に意外と仕事を効率的に行うためのミソが隠されていたりした。
その先輩のやり方を、率直に見習うべきだと思った。
仕事をやってる風に見せて、ちょっと休んでみたり、その休んでいる中から仕事をスムーズに進めるためのネタを用意してみたり。
(例えばExcelのショートカットキーを覚えたり小さなバッチやマクロを組んでみるだけで仕事の効率はグンと向上したりする)
時に遠回りこそが近道だという事をしっかり頭の片隅に植えつけておく。
あとは、先の自分に向けて。
2月から携わる仕事においては、とにかく仕事の中身を速く覚えること。
そして、仕事を速く覚えるためのクリティカルパスを常に意識し、効率的に仕事を進めるように努力すること。
情報収集、資料作成、社内事務、一つ一つの仕事をカイゼンしていくことがまず大事だと思う。
後は周囲との関わり方。色々な方向を向いて勝手に気を使っていたところで自分の負担が大きくなっていたのが今回の結果だったが、今後は気を使わなければならないぶぶんとそうでない部分の見極めをちゃんとする必要がある。上と同じ話になるけれど、息を抜く部分(周りにお世話になりきる部分)と、息を抜かずにしっかりやる部分(自分の全責任においてやり遂げる部分)をちゃんと区別していく。
一つの仕事の効率化と、負担の偏り無い周囲との関係構築。二つを意識して明日からの仕事に臨む。
後は今回の事がどこでどう言われているか、不安じゃないといえば嘘になるけれど、起こったものは覆らないしこれで何と言われてもちゃんと開き直ることが大事だ。
自分は悪いことはしていないし、自分でブレーキをかけたタイミングも間違っていないと思う。(その後の長期休暇を考えるとどうしても後悔が出てくるが、悔やんでも仕方が無いことだ)
周りがどうであれ、開き直って笑って仕事をすることが何より大事。
その中で、周囲に自分の成果を認めてもらえるよう振舞っていくことが大事。
間違っても卑屈な考えを持ったり、オチることを考えないようにしたいと思う。
とにかく元気と笑顔。
それだけは最低限徹底したい。
結局書きたかったことの一つ目だけで終わることになった。
もう一つは、今度ゆっくり書くことにする。休みを無駄に過ごさなかったかについても振り返ってみたい。
ここに書いていることは全てが自分への戒めだから、ひっそりローカルPCにとっておくべきかもしれないけれど、書いたものはもったいないので残しておく。
明日からがんばろう。
ウェブ進化論を呼んで
ウェブ進化論を読んだ。
数年前かなり売れた本だと思うが、読まぬまま本棚に積み上げられていたので、試しに手にとって読んでみることに。
仕事を通してIT技術の進歩のスピード感と拡散性に一人の人間がついていけないと実感していたため、今このタイミングでこの本を読んで得るものはあるのか、疑問を持ちながらも時間はあるから読んでみることに。
とても良い本だった。売れるだけある。
著者は非常に先見性がある人だと感じた。ここで書かれた当時と現在、主人公として登場する数々の企業に対するひとつの答えが出ているが、書いている内容とかなり近しい結果が現れている。今のタイミングで読んで、ここで書かれている先の話と現在の状況を照らし合わせて「そのとおりだなぁ」と思うことが多い。
Googleは拡大を続けているし、色々な革新的なサービスを提供し続けている。(何より関係ないけれど、Googleは今流れているCMが素晴らしい。Webブラウザをあんな風に魅力的に表現できるなんて、広告のアイデアを出した人は純粋に凄いと思う。)
サービスを「こちら側(極端に言うとローカルPC)」から「あちら側(ネット)」に移していった企業がこれから世界を変えていくという予測も、その通りの状況だ。
塵も積もれば山となる、権威(既得権益受益者?既存大企業と言っても良いか。)に対する個の重要化に関する論考もその通り担っていると思うし、後進国や持たざるものの実現機会の増大に関する議論も、的を射ている。
文章そのものも面白い。こういう類のフロンティアスピリッツ溢れる本(この本自体いろんな人に喧嘩を売っていると思う)には共通して持つ性質かと思うが、夢を描かせるのがうまい。現状の指摘に留まらず、「もしもこういうのがあればこうなる」という先を見据えて文章が書かれているのを見ると心がウキウキするものがある。
WebやインターネットやITというものが、人々の手に届く段階から広まる段階、それを活用する段階を経て、今やそもそもWebとかITが無意識下で当然となっている状況だ。ロングテールの尾っぽに位置する色々な人々の活躍もたくさんある。
とても勉強になった一冊だと、改めて記す。
一方で自分が感じただけかもしれないが、根本的に矛盾していないか?と思う箇所もあった。
本が出版されて数年経っている今、回答があるかもしれないが、ここで紹介している「Google」の事例と「ロングテール」の事例は相反するものだと自分は思う。
本書の全ての事例は世界を「オープン化」する点に共通項があり、そこに可能性があると著者は言っている(と自分は解釈した)が、Googleが知の再編成をすること、あるいはその他のサービスをオープンにどこでもいつでも誰でも何かを享受し与えられるようにすることは「環境の開放」という点ではオープンではあるが、Googleに寄りすぎると土台がGoogleの上にしか存在しなくなり、反面クローズな性質を帯び始めるのではないか、と自分は思う。それは別のどのような企業による成果だとしてもそうだし、複数の企業による結果だとしても小さいながらも確実にクローズな性質を帯びる。
例えばGoogleのネット検索結果をシステムで自動提案する点においては、提案機能を持ったシステムの「頭脳」による結果が最優先となる。そこではシステムは人間が作る以上の頭脳を持ち得ない。イコール開発者の考える以上にはならない。検索機能をシステムで実装するということは、何らかの「論理」と「意図」が含まれるという事になる。
おそらく検索結果は「誰もが知りたがるにまっすぐストレートな」情報を提案するようプログラミングされていると思う。
あるいは、多くの人が参照したページに飛ぶのか、多くの投資をする広告主のところに飛ぶのか、どういうロジックが働いているか細かくは分からないけれど、極論を言えばせいぜいそんなところだと思う。プログラム(システム)はどこまで行っても人工生産物、神様たりえないのだ。仮に漫画「ルサンチマン」のように自己成長を遂げられる人工知能のような類であったとしても(漫画では神と名乗っていた気がする)、最終的に行き着くところは自滅的なカオスか超論理的存在かどちらかで、どちらにしてもそんなにハッピーなものじゃないことは自明だ。人はうちに秘めた内面を言葉を通じて全て表現できないし、説明できない。目の届かないものに回答なんて出しようが無いから、世界の絶対解を提示することなんて神様でもできっこない。
Googleが構築する機能を通じて得られる利益は、筆者が本書を通して主張するオープンな世界とは相反する結果をもたらすものだと思う。これまでの色々なサービスよりはオープンな性質は持つものの、最後に行き着くところは一部の人が享受できる、ビジネスライクなとしての価値だ。(ただし、全てがそうというわけでは決してなく、図書にかかわる争議のような部分には著者が記述する性質が非常に大きい。)
検索技術がオープンかクローズかの二項対立で言えば間違いなくクローズだと自分は思う。
例えば「食べる」というキーワードを入力する。意図としては食べるということがどういう事なのか、本質的な疑問を知りたいのに出てくるのはラー油とか食べログとか、せいぜいそんなものだ。
食べるという自明の行為について意味を調べる人がいないせいだと思うけれど、言いたいことはそういうことだ。「大衆」の興味に即した結果を返すのが、検索ブラウザというものだ。
つまりは、検索技術の進歩は本書でどこでもいつでも誰でも、情報の受発信がフラットになるという話とは根本的に食い違う主張になっているのではないか。
検索技術は極めて恣意的だ。政治や陰謀説の類の話ではなく、純粋に情報の質的偏りが発生するのが検索技術の進歩によって起こりうる「フラットではない」世界なのは、必然的だと思う。
Webブラウザから支持するキーワードには単語の表層を上手に切り取る術には長けていても、それを打ち込む自分自身の内面は決してテキストボックスの中の単語には現れないのだから。
本書は先述の通り素晴らしい著書だと思うし、学ぶものも多かったが、Google1を通じて本当にそんなに社会は良くなるのか?そこだけ、答えてもらいたいと思った。自分はこの本の中でのGoogle絶賛論だけは不要だったと思う。
むしろ、ロングテールの尾っぽにかかわる部分から導かれる「未来」に関する事例を充実化すれば、否定する余地が無い一冊だ。
テキストボックスに現れない内面の部分は、このロングテールに関する記述に可能性を秘めている。
大げさかもしれないけれど、ロングテールの尾っぽの話はどこでもいつでも誰でも、どんな形であれ偏り無く平等に全ての人が利益を享受でき、また利益を人に与えることができる、何世紀も前から叫ばれている人類的命題に答えられる可能性が本当にあると思う。
人類みな平等、キーワードとしては大げさだけれど、著者が本当に言いたいのはそれではないのか?
良い機会なので、次は著者の最近の本を読んでみたいと思う。
数年前かなり売れた本だと思うが、読まぬまま本棚に積み上げられていたので、試しに手にとって読んでみることに。
仕事を通してIT技術の進歩のスピード感と拡散性に一人の人間がついていけないと実感していたため、今このタイミングでこの本を読んで得るものはあるのか、疑問を持ちながらも時間はあるから読んでみることに。
とても良い本だった。売れるだけある。
著者は非常に先見性がある人だと感じた。ここで書かれた当時と現在、主人公として登場する数々の企業に対するひとつの答えが出ているが、書いている内容とかなり近しい結果が現れている。今のタイミングで読んで、ここで書かれている先の話と現在の状況を照らし合わせて「そのとおりだなぁ」と思うことが多い。
Googleは拡大を続けているし、色々な革新的なサービスを提供し続けている。(何より関係ないけれど、Googleは今流れているCMが素晴らしい。Webブラウザをあんな風に魅力的に表現できるなんて、広告のアイデアを出した人は純粋に凄いと思う。)
サービスを「こちら側(極端に言うとローカルPC)」から「あちら側(ネット)」に移していった企業がこれから世界を変えていくという予測も、その通りの状況だ。
塵も積もれば山となる、権威(既得権益受益者?既存大企業と言っても良いか。)に対する個の重要化に関する論考もその通り担っていると思うし、後進国や持たざるものの実現機会の増大に関する議論も、的を射ている。
文章そのものも面白い。こういう類のフロンティアスピリッツ溢れる本(この本自体いろんな人に喧嘩を売っていると思う)には共通して持つ性質かと思うが、夢を描かせるのがうまい。現状の指摘に留まらず、「もしもこういうのがあればこうなる」という先を見据えて文章が書かれているのを見ると心がウキウキするものがある。
WebやインターネットやITというものが、人々の手に届く段階から広まる段階、それを活用する段階を経て、今やそもそもWebとかITが無意識下で当然となっている状況だ。ロングテールの尾っぽに位置する色々な人々の活躍もたくさんある。
とても勉強になった一冊だと、改めて記す。
一方で自分が感じただけかもしれないが、根本的に矛盾していないか?と思う箇所もあった。
本が出版されて数年経っている今、回答があるかもしれないが、ここで紹介している「Google」の事例と「ロングテール」の事例は相反するものだと自分は思う。
本書の全ての事例は世界を「オープン化」する点に共通項があり、そこに可能性があると著者は言っている(と自分は解釈した)が、Googleが知の再編成をすること、あるいはその他のサービスをオープンにどこでもいつでも誰でも何かを享受し与えられるようにすることは「環境の開放」という点ではオープンではあるが、Googleに寄りすぎると土台がGoogleの上にしか存在しなくなり、反面クローズな性質を帯び始めるのではないか、と自分は思う。それは別のどのような企業による成果だとしてもそうだし、複数の企業による結果だとしても小さいながらも確実にクローズな性質を帯びる。
例えばGoogleのネット検索結果をシステムで自動提案する点においては、提案機能を持ったシステムの「頭脳」による結果が最優先となる。そこではシステムは人間が作る以上の頭脳を持ち得ない。イコール開発者の考える以上にはならない。検索機能をシステムで実装するということは、何らかの「論理」と「意図」が含まれるという事になる。
おそらく検索結果は「誰もが知りたがるにまっすぐストレートな」情報を提案するようプログラミングされていると思う。
あるいは、多くの人が参照したページに飛ぶのか、多くの投資をする広告主のところに飛ぶのか、どういうロジックが働いているか細かくは分からないけれど、極論を言えばせいぜいそんなところだと思う。プログラム(システム)はどこまで行っても人工生産物、神様たりえないのだ。仮に漫画「ルサンチマン」のように自己成長を遂げられる人工知能のような類であったとしても(漫画では神と名乗っていた気がする)、最終的に行き着くところは自滅的なカオスか超論理的存在かどちらかで、どちらにしてもそんなにハッピーなものじゃないことは自明だ。人はうちに秘めた内面を言葉を通じて全て表現できないし、説明できない。目の届かないものに回答なんて出しようが無いから、世界の絶対解を提示することなんて神様でもできっこない。
Googleが構築する機能を通じて得られる利益は、筆者が本書を通して主張するオープンな世界とは相反する結果をもたらすものだと思う。これまでの色々なサービスよりはオープンな性質は持つものの、最後に行き着くところは一部の人が享受できる、ビジネスライクなとしての価値だ。(ただし、全てがそうというわけでは決してなく、図書にかかわる争議のような部分には著者が記述する性質が非常に大きい。)
検索技術がオープンかクローズかの二項対立で言えば間違いなくクローズだと自分は思う。
例えば「食べる」というキーワードを入力する。意図としては食べるということがどういう事なのか、本質的な疑問を知りたいのに出てくるのはラー油とか食べログとか、せいぜいそんなものだ。
食べるという自明の行為について意味を調べる人がいないせいだと思うけれど、言いたいことはそういうことだ。「大衆」の興味に即した結果を返すのが、検索ブラウザというものだ。
つまりは、検索技術の進歩は本書でどこでもいつでも誰でも、情報の受発信がフラットになるという話とは根本的に食い違う主張になっているのではないか。
検索技術は極めて恣意的だ。政治や陰謀説の類の話ではなく、純粋に情報の質的偏りが発生するのが検索技術の進歩によって起こりうる「フラットではない」世界なのは、必然的だと思う。
Webブラウザから支持するキーワードには単語の表層を上手に切り取る術には長けていても、それを打ち込む自分自身の内面は決してテキストボックスの中の単語には現れないのだから。
本書は先述の通り素晴らしい著書だと思うし、学ぶものも多かったが、Google1を通じて本当にそんなに社会は良くなるのか?そこだけ、答えてもらいたいと思った。自分はこの本の中でのGoogle絶賛論だけは不要だったと思う。
むしろ、ロングテールの尾っぽにかかわる部分から導かれる「未来」に関する事例を充実化すれば、否定する余地が無い一冊だ。
テキストボックスに現れない内面の部分は、このロングテールに関する記述に可能性を秘めている。
大げさかもしれないけれど、ロングテールの尾っぽの話はどこでもいつでも誰でも、どんな形であれ偏り無く平等に全ての人が利益を享受でき、また利益を人に与えることができる、何世紀も前から叫ばれている人類的命題に答えられる可能性が本当にあると思う。
人類みな平等、キーワードとしては大げさだけれど、著者が本当に言いたいのはそれではないのか?
良い機会なので、次は著者の最近の本を読んでみたいと思う。
世界の共通言語
高橋優というミュージシャンを最近知った。
妻曰く、「凄く良い」らしいので聞いてみたけれど、どうもぱっとしてる気がしなくてiTunesの中で曲数は増えていくものの、自分のipodに仲間入りすることは無く、ずっと「ああ、そう」と放置していた。
どうも、そんなに歌がうまいと感じられないことと、曲がPOP過ぎるということと、東京メトロか何かで聞いてたフレーズにまったくピンときていなかったせい。
Ipodの中身は半月に一度位にごっそり入れ替える。
曲数が多すぎると聞きたい曲があってもいつまで経ってもその曲にたどり着けないし、かといって同じのをずっと聞いていると逆に気が滅入るから、そのときそのときのお気に入り数十曲を入れて、あとは全部シャッフルで適当に音楽を入れるというのが自分の習慣になっている。
そのシャッフルの中に入っていたのが妻がせっせとiTunesに積み上げた高橋優という人の曲。
ふと流れてきたので聞いてみると、やっぱりぱっとしなかった。というか、早送りした。
何度か通勤で流れてきた。早送りした。
寝てるときとか、本を読んでいるときはそのまま流しっぱなしで、聞いているといえないような状態で聞いていた。
気がついたらはまっていた。
パワーがあった。
感情があった。
じっくり聞くと、実は凄くよかった。(それでもやっぱり歌はうまくないんじゃないか?と思うけど。)
その人の曲の歌詞に「きっとこの世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う」というのがある。
凄くまっすぐな、すごく真っ当な、J-POPではあまり目にすることの無いインパクトのある歌詞だった。
自分は音楽の歌詞に共感する人間ではないと思っていたのに、グサッと来た。
何よりもまず、自分に言い聞かせたい。
そして小難しい表情をした、いろんな人に聞かせてあげたい。
世界はシンプルだ。
笑顔が一番大事だ。
そのために、暮らすべきだ。何かすべきだ。
今自分がしていること、周りで起きていることは笑顔に向かっているか?
身近に苦しんでいる人はいないか?
地球の裏側で泣いている人はいないか?
自分の生き方を考えると、今までは親を安心させるように生きてきた。
そして、自分が幸せになるように生きてきた。
それ自体は自分がまずやるべき事だったと思うし、間違ったことはしていない。
働いて、自分で稼ぐようになって、妻を持った今、親を安心させるという生きる糧の半分を達成したと少しはいえる今、
自分の幸せばかり考えていないか?楽な方法を選んではいないか?
きっと、自分はまだまだいける。
他の人のためにできることがきっとある。
ただ、やっていない。やっていかないと。
具体的にはどうやるのか?
学生時代に勉強していたことではできないのではないかと思った。
だから、ITという選択肢を選んだ。
でも、そのITを通じて自分の生活を成り立たせることに満足(慣れて)いる自分がいる。
お客様のために働いているけれど、その動機付けは自分の生活が続く事に頭がどんどん向かってしまっている気がする。
大を成し遂げられるとは思っていない。そんな必要も無い。そんな力がある人間でもない。
今の仕事は「地球」の視点で見れば、単なる一企業の一部の業務に従事する人の手助けをするというちっぽけなミッションかもしれないけれど、その積み重ねが人の笑顔に繋がるのだと改めて、自分に言い聞かせる必要がある。
一気に何かをしようと思うのではなく、着実に目の前の事を「誰かのためを思って実践する」事に意味がある。自分なりのやりがいがある。
世界の共通言語が笑顔であるという言葉に、自分の生活や仕事が今はリンクしていない。
だけど、リンクさせられると自分で思うことができれば、誰かから認めてもらうことができればと思う。
そう書くこと自体が「自分が満足する」という欲求に向かっているからエゴイスティックではあるけれど、
それでも実践する事に意味がある。
地球に生きる人それぞれの行動には意味があり、向かう方向や目的や手段は違えど、
本質的にはみんな幸せであることを願うだろう。笑顔で毎日を暮らすことを願うだろう。
そのために自分ができること。モラトリアムの期間は終わり、今は手段が限られた中で、自分に何ができるかはずっと考えていかないといけない。
つらつらと書いてきたこの文章はひどく支離滅裂だ。明らかに整理できていないし、答えも無い。現在進行中なのだろう。
日々自問する中で、この曲の歌詞の持つ意味は凄く大きい。
妻曰く、「凄く良い」らしいので聞いてみたけれど、どうもぱっとしてる気がしなくてiTunesの中で曲数は増えていくものの、自分のipodに仲間入りすることは無く、ずっと「ああ、そう」と放置していた。
どうも、そんなに歌がうまいと感じられないことと、曲がPOP過ぎるということと、東京メトロか何かで聞いてたフレーズにまったくピンときていなかったせい。
Ipodの中身は半月に一度位にごっそり入れ替える。
曲数が多すぎると聞きたい曲があってもいつまで経ってもその曲にたどり着けないし、かといって同じのをずっと聞いていると逆に気が滅入るから、そのときそのときのお気に入り数十曲を入れて、あとは全部シャッフルで適当に音楽を入れるというのが自分の習慣になっている。
そのシャッフルの中に入っていたのが妻がせっせとiTunesに積み上げた高橋優という人の曲。
ふと流れてきたので聞いてみると、やっぱりぱっとしなかった。というか、早送りした。
何度か通勤で流れてきた。早送りした。
寝てるときとか、本を読んでいるときはそのまま流しっぱなしで、聞いているといえないような状態で聞いていた。
気がついたらはまっていた。
パワーがあった。
感情があった。
じっくり聞くと、実は凄くよかった。(それでもやっぱり歌はうまくないんじゃないか?と思うけど。)
その人の曲の歌詞に「きっとこの世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う」というのがある。
凄くまっすぐな、すごく真っ当な、J-POPではあまり目にすることの無いインパクトのある歌詞だった。
自分は音楽の歌詞に共感する人間ではないと思っていたのに、グサッと来た。
何よりもまず、自分に言い聞かせたい。
そして小難しい表情をした、いろんな人に聞かせてあげたい。
世界はシンプルだ。
笑顔が一番大事だ。
そのために、暮らすべきだ。何かすべきだ。
今自分がしていること、周りで起きていることは笑顔に向かっているか?
身近に苦しんでいる人はいないか?
地球の裏側で泣いている人はいないか?
自分の生き方を考えると、今までは親を安心させるように生きてきた。
そして、自分が幸せになるように生きてきた。
それ自体は自分がまずやるべき事だったと思うし、間違ったことはしていない。
働いて、自分で稼ぐようになって、妻を持った今、親を安心させるという生きる糧の半分を達成したと少しはいえる今、
自分の幸せばかり考えていないか?楽な方法を選んではいないか?
きっと、自分はまだまだいける。
他の人のためにできることがきっとある。
ただ、やっていない。やっていかないと。
具体的にはどうやるのか?
学生時代に勉強していたことではできないのではないかと思った。
だから、ITという選択肢を選んだ。
でも、そのITを通じて自分の生活を成り立たせることに満足(慣れて)いる自分がいる。
お客様のために働いているけれど、その動機付けは自分の生活が続く事に頭がどんどん向かってしまっている気がする。
大を成し遂げられるとは思っていない。そんな必要も無い。そんな力がある人間でもない。
今の仕事は「地球」の視点で見れば、単なる一企業の一部の業務に従事する人の手助けをするというちっぽけなミッションかもしれないけれど、その積み重ねが人の笑顔に繋がるのだと改めて、自分に言い聞かせる必要がある。
一気に何かをしようと思うのではなく、着実に目の前の事を「誰かのためを思って実践する」事に意味がある。自分なりのやりがいがある。
世界の共通言語が笑顔であるという言葉に、自分の生活や仕事が今はリンクしていない。
だけど、リンクさせられると自分で思うことができれば、誰かから認めてもらうことができればと思う。
そう書くこと自体が「自分が満足する」という欲求に向かっているからエゴイスティックではあるけれど、
それでも実践する事に意味がある。
地球に生きる人それぞれの行動には意味があり、向かう方向や目的や手段は違えど、
本質的にはみんな幸せであることを願うだろう。笑顔で毎日を暮らすことを願うだろう。
そのために自分ができること。モラトリアムの期間は終わり、今は手段が限られた中で、自分に何ができるかはずっと考えていかないといけない。
つらつらと書いてきたこの文章はひどく支離滅裂だ。明らかに整理できていないし、答えも無い。現在進行中なのだろう。
日々自問する中で、この曲の歌詞の持つ意味は凄く大きい。
まちは
家を出て、今行くところといえば東京駅近くにある病院か、図書館くらいな生活になって一週間が経った。
通常勤務している時の滞在場所は、家と会社のオフィスだけだから、さほど世界の狭さは変わらない。
だけど、見える風景はまったく違う。
太陽は白いし、木々は茶色い。
歩く街の舗装は固くてどこもかしこも灰色だし、どこまで行っても石かコンクリートが続いている。
街の音は煩わしい雑音ではなく、自分の存在を常に無視して常に多様だ。
学生時代にタイムスリップした気分がする。
当時は論文や将来の自分に幾許かの不安を抱えながらも、日々起こる何もが新鮮で、捕らえ様ひとつで世界が変わって見えた。
目線を少し上に向けるだけで世界は変わる。そう思っていた当時の感覚を久しぶりに思い出した。
近所にある図書館はわりと大きな図書館で、蔵書数は少ないものの、雑誌は豊富だし専門書も数多く置いてある。
少し懐かしい気分で建築・ランドスケープ系の蔵書を手にとって眺めてみた。
最新のA+Uはスイスの建築特集だった。
ヘルツォーグ&ド・ムーロンらの奇抜なデザインが大半を占めるものの、中には温かみのある人間性に溢れた建築物もいくらか存在した。建築の世界の状況は興味を持って眺めていた数年前とそう変わっているようには思えない。
スイスの建築特集でありながら、スイスである必要性がまったく感じられないものが大半だ。(スイスだからこそ、と感じるものがまったく無かったわけではない。)
やはり、建築デザインの領域は一般大衆の感覚とズレている気がする。
考えすぎているのか、「過去のデザインの潮流を基点として今がどうか」というカテゴリの枠に縛られているのか、それともこれから新しい感覚の基準を自分たちで構築しようとしているのか分からないが、大層に書かれている記述も、必要以上に凝った外装も、少し敬遠気味に見てしまう。一般会社員として。
建築物の写真を見て、かっこいいなぁと思う。
だけど、それだけでその先がやっぱりない。
行きたいな、とは思うけれどそれはスイスであってその建築ではない。
きっと、行ってその場に立てば、すごく気持ちが良いだろうし、建物もすごいと思う。
だけど、スイス特集と銘を打つ必要がどこにあるのか、文章を読んでも写真を読んでも分からないものが多い気がする。
ちゃんと「あるべきものがあるべき場所に」建てるべきだと思うし、雑誌としてそれを伝える内容であって欲しかった。
とはいえ昔、新建築で「東京国際フォーラム」を見て、なんだこれ?と思って試しに行ったっきり、
未だに大好きなままである建築もあるから、本で見ただけでああだこうだ言うべきものではないのだとも思う。
東京国際フォーラムも、ちょっとづつ変わっていて、少しがっかりすることはある。
余計な照明のポールが増えて明るくなった気がするし、当初見たときよりごちゃごちゃしてきている。
子供だましのような、手を叩くと音が反響する通路があったけれど、それも今は機能していないし。
(茶目っ気たっぷりな子供だましな装置をひとつの空間でやってのける感性が新鮮で、おかしいけれど遊び心があって好きだったのに。)
街に目を向ける。
自分の生活習慣において接する都心中心街は以前にもまして、どの街も同じだ。
銀座、新宿、渋谷、秋葉原、川崎、幕張。
やることは同じだし、ある店も同じ。大きな家電量販店があって、ファストファッションのお店があって、よく似た飲食店がある。
だけど、そのおかげで、中心街以外の場所に個性が感じられるようになった気がする。
下北はやっぱり下北だし、この間歩いた代々木もすごく人間くさい雰囲気がする建物がいっぱいあった(どこかの労組の廃ビルとか街の何でも屋とか小汚い居酒屋とか)。
東京駅から少し離れて宝町や八丁堀近辺は規模が小さいながらも面白い店舗が多いし(美術館とかこじんまりした居酒屋とか)、
家の近所を散歩しても泥臭い匂いの漂う町工場があったりする。(今の一番のお気に入りは家の近所のイトーヨーカドーのぶっきらぼうに素材むき出しな駐車場だ)
開発(進化と言うのか?)が進む街はどんどん同じような建物と店舗と人の集まりで均質化していく。
一方で、進化の速度が緩やかな街は、これまで没個性だったのもそれが翻って街の魅力になる。
昔ある建築家がある本(討議フォーラムだったかな?)で、未来の東京を絵にしてくださいと言われ、ぐしゃぐしゃに塗りたくった黒一色の中にポコンポコンと白く高い構造物があるイメージを紹介していた。
当時の自分はその絵を、コルビュジェの輝く都市 のイメージを抽象化しただけじゃないかと、あまり良く分からなかったし新鮮味も感じていなかった。「ああ、建築家さんはやっぱり機能の集中と高いものに興味があるんだな」と、好きな建築家だっただけにがっかりしたのを覚えている。
その建築家さんがその時描いた未来は今よりもずっと先だったけれど、もしかすると、そのときその絵から考えるべきは白く高い構造物以上に、ぐしゃぐしゃに塗りたくったグレーの部分だったのかもしれない。
白く高い構造物が今の中心街で、その周りに「いろいろ」ある。
その建築家さんは、集中とは別に、各々の町が選択していく勝手なストーリーもちゃんと考慮してその絵を描いたんじゃないかと今になって思った。
スイスの建築も、ただ本を見て建築学っぽいなぁがっかりしたのは自分だけで、その場に立って始めて気づく良さとらしさは必ず存在するはずで、その中での建築は街らしさを構築するひとつの要素としてしっかり働いているんだろう。街や都市を局所的に見てどうこう判断する事自体にさほど意味は無いのかもしれない。
最後に、図書館で見つけた本の中に興味深い本があった。
当時はちゃんとまとめられているのを見たことがないランドスケープの歴史本。
学生の時に出会いたかったと思う。
流し読みだけれど、人と歴史と造形と、網羅的な内容が含まれている様子だった。
内容の是非は知らないけれど、もっと前に手にとって見たかったひとつの本だった。
通常勤務している時の滞在場所は、家と会社のオフィスだけだから、さほど世界の狭さは変わらない。
だけど、見える風景はまったく違う。
太陽は白いし、木々は茶色い。
歩く街の舗装は固くてどこもかしこも灰色だし、どこまで行っても石かコンクリートが続いている。
街の音は煩わしい雑音ではなく、自分の存在を常に無視して常に多様だ。
学生時代にタイムスリップした気分がする。
当時は論文や将来の自分に幾許かの不安を抱えながらも、日々起こる何もが新鮮で、捕らえ様ひとつで世界が変わって見えた。
目線を少し上に向けるだけで世界は変わる。そう思っていた当時の感覚を久しぶりに思い出した。
近所にある図書館はわりと大きな図書館で、蔵書数は少ないものの、雑誌は豊富だし専門書も数多く置いてある。
少し懐かしい気分で建築・ランドスケープ系の蔵書を手にとって眺めてみた。
最新のA+Uはスイスの建築特集だった。
ヘルツォーグ&ド・ムーロンらの奇抜なデザインが大半を占めるものの、中には温かみのある人間性に溢れた建築物もいくらか存在した。建築の世界の状況は興味を持って眺めていた数年前とそう変わっているようには思えない。
スイスの建築特集でありながら、スイスである必要性がまったく感じられないものが大半だ。(スイスだからこそ、と感じるものがまったく無かったわけではない。)
やはり、建築デザインの領域は一般大衆の感覚とズレている気がする。
考えすぎているのか、「過去のデザインの潮流を基点として今がどうか」というカテゴリの枠に縛られているのか、それともこれから新しい感覚の基準を自分たちで構築しようとしているのか分からないが、大層に書かれている記述も、必要以上に凝った外装も、少し敬遠気味に見てしまう。一般会社員として。
建築物の写真を見て、かっこいいなぁと思う。
だけど、それだけでその先がやっぱりない。
行きたいな、とは思うけれどそれはスイスであってその建築ではない。
きっと、行ってその場に立てば、すごく気持ちが良いだろうし、建物もすごいと思う。
だけど、スイス特集と銘を打つ必要がどこにあるのか、文章を読んでも写真を読んでも分からないものが多い気がする。
ちゃんと「あるべきものがあるべき場所に」建てるべきだと思うし、雑誌としてそれを伝える内容であって欲しかった。
とはいえ昔、新建築で「東京国際フォーラム」を見て、なんだこれ?と思って試しに行ったっきり、
未だに大好きなままである建築もあるから、本で見ただけでああだこうだ言うべきものではないのだとも思う。
東京国際フォーラムも、ちょっとづつ変わっていて、少しがっかりすることはある。
余計な照明のポールが増えて明るくなった気がするし、当初見たときよりごちゃごちゃしてきている。
子供だましのような、手を叩くと音が反響する通路があったけれど、それも今は機能していないし。
(茶目っ気たっぷりな子供だましな装置をひとつの空間でやってのける感性が新鮮で、おかしいけれど遊び心があって好きだったのに。)
街に目を向ける。
自分の生活習慣において接する都心中心街は以前にもまして、どの街も同じだ。
銀座、新宿、渋谷、秋葉原、川崎、幕張。
やることは同じだし、ある店も同じ。大きな家電量販店があって、ファストファッションのお店があって、よく似た飲食店がある。
だけど、そのおかげで、中心街以外の場所に個性が感じられるようになった気がする。
下北はやっぱり下北だし、この間歩いた代々木もすごく人間くさい雰囲気がする建物がいっぱいあった(どこかの労組の廃ビルとか街の何でも屋とか小汚い居酒屋とか)。
東京駅から少し離れて宝町や八丁堀近辺は規模が小さいながらも面白い店舗が多いし(美術館とかこじんまりした居酒屋とか)、
家の近所を散歩しても泥臭い匂いの漂う町工場があったりする。(今の一番のお気に入りは家の近所のイトーヨーカドーのぶっきらぼうに素材むき出しな駐車場だ)
開発(進化と言うのか?)が進む街はどんどん同じような建物と店舗と人の集まりで均質化していく。
一方で、進化の速度が緩やかな街は、これまで没個性だったのもそれが翻って街の魅力になる。
昔ある建築家がある本(討議フォーラムだったかな?)で、未来の東京を絵にしてくださいと言われ、ぐしゃぐしゃに塗りたくった黒一色の中にポコンポコンと白く高い構造物があるイメージを紹介していた。
当時の自分はその絵を、コルビュジェの輝く都市 のイメージを抽象化しただけじゃないかと、あまり良く分からなかったし新鮮味も感じていなかった。「ああ、建築家さんはやっぱり機能の集中と高いものに興味があるんだな」と、好きな建築家だっただけにがっかりしたのを覚えている。
その建築家さんがその時描いた未来は今よりもずっと先だったけれど、もしかすると、そのときその絵から考えるべきは白く高い構造物以上に、ぐしゃぐしゃに塗りたくったグレーの部分だったのかもしれない。
白く高い構造物が今の中心街で、その周りに「いろいろ」ある。
その建築家さんは、集中とは別に、各々の町が選択していく勝手なストーリーもちゃんと考慮してその絵を描いたんじゃないかと今になって思った。
スイスの建築も、ただ本を見て建築学っぽいなぁがっかりしたのは自分だけで、その場に立って始めて気づく良さとらしさは必ず存在するはずで、その中での建築は街らしさを構築するひとつの要素としてしっかり働いているんだろう。街や都市を局所的に見てどうこう判断する事自体にさほど意味は無いのかもしれない。
最後に、図書館で見つけた本の中に興味深い本があった。
当時はちゃんとまとめられているのを見たことがないランドスケープの歴史本。
学生の時に出会いたかったと思う。
流し読みだけれど、人と歴史と造形と、網羅的な内容が含まれている様子だった。
内容の是非は知らないけれど、もっと前に手にとって見たかったひとつの本だった。
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