ウェブ進化論を呼んで
ウェブ進化論を読んだ。
数年前かなり売れた本だと思うが、読まぬまま本棚に積み上げられていたので、試しに手にとって読んでみることに。
仕事を通してIT技術の進歩のスピード感と拡散性に一人の人間がついていけないと実感していたため、今このタイミングでこの本を読んで得るものはあるのか、疑問を持ちながらも時間はあるから読んでみることに。
とても良い本だった。売れるだけある。
著者は非常に先見性がある人だと感じた。ここで書かれた当時と現在、主人公として登場する数々の企業に対するひとつの答えが出ているが、書いている内容とかなり近しい結果が現れている。今のタイミングで読んで、ここで書かれている先の話と現在の状況を照らし合わせて「そのとおりだなぁ」と思うことが多い。
Googleは拡大を続けているし、色々な革新的なサービスを提供し続けている。(何より関係ないけれど、Googleは今流れているCMが素晴らしい。Webブラウザをあんな風に魅力的に表現できるなんて、広告のアイデアを出した人は純粋に凄いと思う。)
サービスを「こちら側(極端に言うとローカルPC)」から「あちら側(ネット)」に移していった企業がこれから世界を変えていくという予測も、その通りの状況だ。
塵も積もれば山となる、権威(既得権益受益者?既存大企業と言っても良いか。)に対する個の重要化に関する論考もその通り担っていると思うし、後進国や持たざるものの実現機会の増大に関する議論も、的を射ている。
文章そのものも面白い。こういう類のフロンティアスピリッツ溢れる本(この本自体いろんな人に喧嘩を売っていると思う)には共通して持つ性質かと思うが、夢を描かせるのがうまい。現状の指摘に留まらず、「もしもこういうのがあればこうなる」という先を見据えて文章が書かれているのを見ると心がウキウキするものがある。
WebやインターネットやITというものが、人々の手に届く段階から広まる段階、それを活用する段階を経て、今やそもそもWebとかITが無意識下で当然となっている状況だ。ロングテールの尾っぽに位置する色々な人々の活躍もたくさんある。
とても勉強になった一冊だと、改めて記す。
一方で自分が感じただけかもしれないが、根本的に矛盾していないか?と思う箇所もあった。
本が出版されて数年経っている今、回答があるかもしれないが、ここで紹介している「Google」の事例と「ロングテール」の事例は相反するものだと自分は思う。
本書の全ての事例は世界を「オープン化」する点に共通項があり、そこに可能性があると著者は言っている(と自分は解釈した)が、Googleが知の再編成をすること、あるいはその他のサービスをオープンにどこでもいつでも誰でも何かを享受し与えられるようにすることは「環境の開放」という点ではオープンではあるが、Googleに寄りすぎると土台がGoogleの上にしか存在しなくなり、反面クローズな性質を帯び始めるのではないか、と自分は思う。それは別のどのような企業による成果だとしてもそうだし、複数の企業による結果だとしても小さいながらも確実にクローズな性質を帯びる。
例えばGoogleのネット検索結果をシステムで自動提案する点においては、提案機能を持ったシステムの「頭脳」による結果が最優先となる。そこではシステムは人間が作る以上の頭脳を持ち得ない。イコール開発者の考える以上にはならない。検索機能をシステムで実装するということは、何らかの「論理」と「意図」が含まれるという事になる。
おそらく検索結果は「誰もが知りたがるにまっすぐストレートな」情報を提案するようプログラミングされていると思う。
あるいは、多くの人が参照したページに飛ぶのか、多くの投資をする広告主のところに飛ぶのか、どういうロジックが働いているか細かくは分からないけれど、極論を言えばせいぜいそんなところだと思う。プログラム(システム)はどこまで行っても人工生産物、神様たりえないのだ。仮に漫画「ルサンチマン」のように自己成長を遂げられる人工知能のような類であったとしても(漫画では神と名乗っていた気がする)、最終的に行き着くところは自滅的なカオスか超論理的存在かどちらかで、どちらにしてもそんなにハッピーなものじゃないことは自明だ。人はうちに秘めた内面を言葉を通じて全て表現できないし、説明できない。目の届かないものに回答なんて出しようが無いから、世界の絶対解を提示することなんて神様でもできっこない。
Googleが構築する機能を通じて得られる利益は、筆者が本書を通して主張するオープンな世界とは相反する結果をもたらすものだと思う。これまでの色々なサービスよりはオープンな性質は持つものの、最後に行き着くところは一部の人が享受できる、ビジネスライクなとしての価値だ。(ただし、全てがそうというわけでは決してなく、図書にかかわる争議のような部分には著者が記述する性質が非常に大きい。)
検索技術がオープンかクローズかの二項対立で言えば間違いなくクローズだと自分は思う。
例えば「食べる」というキーワードを入力する。意図としては食べるということがどういう事なのか、本質的な疑問を知りたいのに出てくるのはラー油とか食べログとか、せいぜいそんなものだ。
食べるという自明の行為について意味を調べる人がいないせいだと思うけれど、言いたいことはそういうことだ。「大衆」の興味に即した結果を返すのが、検索ブラウザというものだ。
つまりは、検索技術の進歩は本書でどこでもいつでも誰でも、情報の受発信がフラットになるという話とは根本的に食い違う主張になっているのではないか。
検索技術は極めて恣意的だ。政治や陰謀説の類の話ではなく、純粋に情報の質的偏りが発生するのが検索技術の進歩によって起こりうる「フラットではない」世界なのは、必然的だと思う。
Webブラウザから支持するキーワードには単語の表層を上手に切り取る術には長けていても、それを打ち込む自分自身の内面は決してテキストボックスの中の単語には現れないのだから。
本書は先述の通り素晴らしい著書だと思うし、学ぶものも多かったが、Google1を通じて本当にそんなに社会は良くなるのか?そこだけ、答えてもらいたいと思った。自分はこの本の中でのGoogle絶賛論だけは不要だったと思う。
むしろ、ロングテールの尾っぽにかかわる部分から導かれる「未来」に関する事例を充実化すれば、否定する余地が無い一冊だ。
テキストボックスに現れない内面の部分は、このロングテールに関する記述に可能性を秘めている。
大げさかもしれないけれど、ロングテールの尾っぽの話はどこでもいつでも誰でも、どんな形であれ偏り無く平等に全ての人が利益を享受でき、また利益を人に与えることができる、何世紀も前から叫ばれている人類的命題に答えられる可能性が本当にあると思う。
人類みな平等、キーワードとしては大げさだけれど、著者が本当に言いたいのはそれではないのか?
良い機会なので、次は著者の最近の本を読んでみたいと思う。
数年前かなり売れた本だと思うが、読まぬまま本棚に積み上げられていたので、試しに手にとって読んでみることに。
仕事を通してIT技術の進歩のスピード感と拡散性に一人の人間がついていけないと実感していたため、今このタイミングでこの本を読んで得るものはあるのか、疑問を持ちながらも時間はあるから読んでみることに。
とても良い本だった。売れるだけある。
著者は非常に先見性がある人だと感じた。ここで書かれた当時と現在、主人公として登場する数々の企業に対するひとつの答えが出ているが、書いている内容とかなり近しい結果が現れている。今のタイミングで読んで、ここで書かれている先の話と現在の状況を照らし合わせて「そのとおりだなぁ」と思うことが多い。
Googleは拡大を続けているし、色々な革新的なサービスを提供し続けている。(何より関係ないけれど、Googleは今流れているCMが素晴らしい。Webブラウザをあんな風に魅力的に表現できるなんて、広告のアイデアを出した人は純粋に凄いと思う。)
サービスを「こちら側(極端に言うとローカルPC)」から「あちら側(ネット)」に移していった企業がこれから世界を変えていくという予測も、その通りの状況だ。
塵も積もれば山となる、権威(既得権益受益者?既存大企業と言っても良いか。)に対する個の重要化に関する論考もその通り担っていると思うし、後進国や持たざるものの実現機会の増大に関する議論も、的を射ている。
文章そのものも面白い。こういう類のフロンティアスピリッツ溢れる本(この本自体いろんな人に喧嘩を売っていると思う)には共通して持つ性質かと思うが、夢を描かせるのがうまい。現状の指摘に留まらず、「もしもこういうのがあればこうなる」という先を見据えて文章が書かれているのを見ると心がウキウキするものがある。
WebやインターネットやITというものが、人々の手に届く段階から広まる段階、それを活用する段階を経て、今やそもそもWebとかITが無意識下で当然となっている状況だ。ロングテールの尾っぽに位置する色々な人々の活躍もたくさんある。
とても勉強になった一冊だと、改めて記す。
一方で自分が感じただけかもしれないが、根本的に矛盾していないか?と思う箇所もあった。
本が出版されて数年経っている今、回答があるかもしれないが、ここで紹介している「Google」の事例と「ロングテール」の事例は相反するものだと自分は思う。
本書の全ての事例は世界を「オープン化」する点に共通項があり、そこに可能性があると著者は言っている(と自分は解釈した)が、Googleが知の再編成をすること、あるいはその他のサービスをオープンにどこでもいつでも誰でも何かを享受し与えられるようにすることは「環境の開放」という点ではオープンではあるが、Googleに寄りすぎると土台がGoogleの上にしか存在しなくなり、反面クローズな性質を帯び始めるのではないか、と自分は思う。それは別のどのような企業による成果だとしてもそうだし、複数の企業による結果だとしても小さいながらも確実にクローズな性質を帯びる。
例えばGoogleのネット検索結果をシステムで自動提案する点においては、提案機能を持ったシステムの「頭脳」による結果が最優先となる。そこではシステムは人間が作る以上の頭脳を持ち得ない。イコール開発者の考える以上にはならない。検索機能をシステムで実装するということは、何らかの「論理」と「意図」が含まれるという事になる。
おそらく検索結果は「誰もが知りたがるにまっすぐストレートな」情報を提案するようプログラミングされていると思う。
あるいは、多くの人が参照したページに飛ぶのか、多くの投資をする広告主のところに飛ぶのか、どういうロジックが働いているか細かくは分からないけれど、極論を言えばせいぜいそんなところだと思う。プログラム(システム)はどこまで行っても人工生産物、神様たりえないのだ。仮に漫画「ルサンチマン」のように自己成長を遂げられる人工知能のような類であったとしても(漫画では神と名乗っていた気がする)、最終的に行き着くところは自滅的なカオスか超論理的存在かどちらかで、どちらにしてもそんなにハッピーなものじゃないことは自明だ。人はうちに秘めた内面を言葉を通じて全て表現できないし、説明できない。目の届かないものに回答なんて出しようが無いから、世界の絶対解を提示することなんて神様でもできっこない。
Googleが構築する機能を通じて得られる利益は、筆者が本書を通して主張するオープンな世界とは相反する結果をもたらすものだと思う。これまでの色々なサービスよりはオープンな性質は持つものの、最後に行き着くところは一部の人が享受できる、ビジネスライクなとしての価値だ。(ただし、全てがそうというわけでは決してなく、図書にかかわる争議のような部分には著者が記述する性質が非常に大きい。)
検索技術がオープンかクローズかの二項対立で言えば間違いなくクローズだと自分は思う。
例えば「食べる」というキーワードを入力する。意図としては食べるということがどういう事なのか、本質的な疑問を知りたいのに出てくるのはラー油とか食べログとか、せいぜいそんなものだ。
食べるという自明の行為について意味を調べる人がいないせいだと思うけれど、言いたいことはそういうことだ。「大衆」の興味に即した結果を返すのが、検索ブラウザというものだ。
つまりは、検索技術の進歩は本書でどこでもいつでも誰でも、情報の受発信がフラットになるという話とは根本的に食い違う主張になっているのではないか。
検索技術は極めて恣意的だ。政治や陰謀説の類の話ではなく、純粋に情報の質的偏りが発生するのが検索技術の進歩によって起こりうる「フラットではない」世界なのは、必然的だと思う。
Webブラウザから支持するキーワードには単語の表層を上手に切り取る術には長けていても、それを打ち込む自分自身の内面は決してテキストボックスの中の単語には現れないのだから。
本書は先述の通り素晴らしい著書だと思うし、学ぶものも多かったが、Google1を通じて本当にそんなに社会は良くなるのか?そこだけ、答えてもらいたいと思った。自分はこの本の中でのGoogle絶賛論だけは不要だったと思う。
むしろ、ロングテールの尾っぽにかかわる部分から導かれる「未来」に関する事例を充実化すれば、否定する余地が無い一冊だ。
テキストボックスに現れない内面の部分は、このロングテールに関する記述に可能性を秘めている。
大げさかもしれないけれど、ロングテールの尾っぽの話はどこでもいつでも誰でも、どんな形であれ偏り無く平等に全ての人が利益を享受でき、また利益を人に与えることができる、何世紀も前から叫ばれている人類的命題に答えられる可能性が本当にあると思う。
人類みな平等、キーワードとしては大げさだけれど、著者が本当に言いたいのはそれではないのか?
良い機会なので、次は著者の最近の本を読んでみたいと思う。





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